2017年 2月10日
久しぶりの街道歩きです。大坂から熊野まで。葛城二十八宿経塚巡行をしている時、雲山峰から降りてきて滝畑で国道に合流した時になにやら祠があると思ったら、そこは中山王子だったのです。そうかここは熊野街道だった。そういえば九十九王子があったなあ。滝畑の中山王子脇は2回通りましたが、王子にはお参りもせず。
熊野街道と言えば、春先に御坊の名田から切目まで歩いて、春爛漫ではなかったが、南紀らしい春を満喫できたことを思い出しました。今から歩けばちょうど3月ころに紀伊路の海岸べりを歩くことになる・・・というこで、今回は熊野街道紀伊路を歩いてみます。

◆熊野街道起点標
久しぶりの街道歩きです。大坂から熊野まで。葛城二十八宿経塚巡行をしている時、雲山峰から降りてきて滝畑で国道に合流した時になにやら祠があると思ったら、そこは中山王子だったのです。そうかここは熊野街道だった。そういえば九十九王子があったなあ。滝畑の中山王子脇は2回通りましたが、王子にはお参りもせず。
熊野街道と言えば、春先に御坊の名田から切目まで歩いて、春爛漫ではなかったが、南紀らしい春を満喫できたことを思い出しました。今から歩けばちょうど3月ころに紀伊路の海岸べりを歩くことになる・・・というこで、今回は熊野街道紀伊路を歩いてみます。

◆熊野街道起点標
■コースタイム
10:37 八軒屋浜
10:43 御祓筋
10:46 八軒屋船着場 永田屋昆布店前
10:50 ★坐摩神社行宮(1)窪津王子渡辺王子跡
11:11 生国魂神社行宮
11:16 東横堀川
11:40 坐摩神社 11:50
12:11 ★狸坂大明神、(2)坂口王子跡朝日神社跡 12:17
12:23 空堀商店街
12:31 ★(3)郡戸王子跡、高津宮■T休憩 12:56
13:07 いくたまさん 13:14
13:19 生玉前町喫茶店■昼食休憩 13:49
14:04 ★(4)上野王子跡、上之宮社の跡の碑
14:18 ★久保神社、熊野大神宮を合祀『摂津志』に上野王子祠と記載の神社
14:30 北河堀コンビニ■T休憩 14:41
14:50 ★堀越神社、熊野第一王子
15:00 あべのキューズモール■T休憩 15:08
15:35 ★(5)阿倍野王子神社
15:57 万代池■T休憩 16:02
16:06 帝塚山4丁目駅
16:31 ★(6)津守王子候補地
16:48 ★(6)津守王子合祀止々呂支比売命神社
16:57 墨江コンビニ■T休憩 17:09
17:14 遠里小野商店街
17:20 大和川堤防
17:34 浅香山駅
23.8km/7時間6分/内休憩1時間17分
■マップ
青線部分が本日の行程。必要部分を手動で拡大してください。
■参考サイト
熊野古道、九十九王子社 神奈備さん
http://www.kamnavi.jp/kumano/index.htm
大阪府熊野街道マップ
http://www.pref.osaka.lg.jp/doroseibi/kakusyusesaku/rekishikaidou.html#kumano
1.大坂の始まりの地
まずは、ここから、八軒屋浜。

上町台地の北端は古代から渡辺津(わたなべのつ)という港として栄え、上町台地は政治の中心地ともなっていました。江戸時代には、船宿(あるいは民家)が8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」が出入りする淀川舟運の要衝でした。


なにしてんねん?

今の八軒屋浜から京阪シティモールを越して土佐堀通りに面した永田屋昆店の前には船着き場の石碑が建っている。この石碑の裏側にも石碑がありますが、永田屋さんの看板を入れたいのでナナメから。

石町に移動します。
御祓筋と土佐堀通の角に熊野街道始点の石碑があります。平安~鎌倉時代、京から舟で下ってきた熊野詣の一行は渡辺津ここから南へ出発したという。南この地から陸路を歩んだという。

御祓筋を見ると、急な坂を登って行きます。

御祓筋のひとつ東の筋は奥が階段になっていて、登ると北大江公園です。ビルの3Fフロアくらいまでの高低差がありますね。まさしくここが上町台地の突端だったのだ!

上町台地北部のコンターを現す地図を入手しました。土木学会論文集D2(土木史)Vol.68,No.1,1-10,2012、阿部貴弘、篠原修「近世城下町大坂の上町地区における城下町設計の論理」p5、図6から転載したものです。

どないして測ったんや?と思うくらいの微地形が示されていますが、御祓筋の北端はコンターが詰まっていてほとんど崖のようです。そのひとつ西の筋(内骨屋町筋)は傾斜がややゆるやかになりますが、坂は坂。

ここを少し入ると石町で、ビルに囲まれた中に坐摩(いかすり)神社行宮があります。昔の坐摩神社のあったところ。ここが窪津王子(渡辺王子とも)跡と言われています。上記の地図に赤丸で坐摩神社行宮の位置を示しました。



石町の由来となった神功皇后の御座石。しっかりガードされて全く分かりません。

上掲の地図をみると上町台地の崖ットから降りたところ。古代において、ここから先、北は大川の元の流れがあり、湿地か砂州が広がっており、西も湿地か砂州だったでしょう。淀川の堆積物で陸地ができつつあった。南は崖ットを登ると上町台地が南に伸びていた。まさしく、ここが大坂の始まりの地点だった。
坐摩神社はこの後行きますが、ご祭神は坐摩神で、以下の5柱の総称。

◆坐摩神社本宮のご祭神
生井神(いくゐのかみ)-井水の神(生命力のある井戸水の神)
福井神(さくゐのかみ)-井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
綱長井神(つながゐのかみ -井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
波比祇神 (はひきのかみ)-竃神(屋敷神。庭の神)
阿須波神 (はすはのかみ)-竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)
以上、中沢新一著・大坂アースダイバー「大坂の地主神」から。
さらに、
http://www.ikasuri.or.jp/yuisho.html
http://www.y-tohara.com/settu-ikasuri.html
http://kamnavi.jp/ym/osaka/ikasuri.htm
坐摩神について、詳しくは上記を参照いただきたいですが、調べるほどに、この坐摩神は大坂にとってはとても重要な神様です。
以下は、以前調べたものの再掲載。
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2016/01/4-831f.html
------
坐摩神社は天正11年(1583年)秀吉の大坂城築城によって移動させられているが、元の鎮座地は渡辺津などと呼ばれた現在の中央区石町(こくまち、八軒家の近く)にあり、ここには摂津国の国府も置かれていたらしい。そこはかつての淀川河口、もっと昔は堀江を穿った河内湖の出入口で、上町台地の最北端。典型的な聖性地形になっているところである。イカスリとは「ここに居ることを知る」という意味らしく、平たくいうと「ワシは元々からここにおるんやで」ということ。上町台地の、そして大坂の基本的な地主神といってよいだろう。
さらに、元々の坐摩神社の地は河内王朝の宮のある上町台地の突端で、南東には高安山が見え、冬至にはそこから朝日が直にさしてくる。そこでは日を迎える祭祀がおこなわれたらしい。その祭祀を司ったのが都下(ツゲ)国造氏で、その娘たちが日神を迎えて御子を生む神の妻(日妻)としての巫女だった。こで祀られていた霊がイカスリ「ここに居ることを知る」ということらしい。坐摩神社の旧地は河内王朝にとっては重要な聖地だった。
------
まさしく、大坂の始まりの地です。熊野詣の道がここから始まったのも頷ける。大阪人なら摂津も河内も一度は来てみるべきかとさえ思います。
内骨屋町筋や御祓筋を南進すると、これまた大坂の重要な神社である高津宮、生国魂神社に突き当たります。どちらも上町台地の西の崖っとにある神社です。
今日は途中で坐摩神社本宮に寄り道しますが、基本的に内骨屋町筋を下って行くことにします。
写真は、内骨屋町筋から東、御祓筋方面を見ています。御祓筋のほうがやや高い。

坐摩神社本宮に寄り道します。行宮だけでなくここも行っとかないと。
拝殿。ご祭神、こちらの成り立ちについては前述した通りです。

陶器神社というのがありました。比較的新しい神社のようでした。


お約束の上方落語寄席発祥の地の石碑
坐摩神社境内にてはじめて「寄席」を建て、坐摩太夫桂文治と言われたそうです。

2.崖っぷちの高津宮と生国魂神社
■坂口王子の跡
もとの内骨屋町筋に戻ってきました。ここを南下します。粉川町の公園(南大江公園)に立ち寄ります。
これは狸坂大明神。
この南横に、朝日神明社跡の石碑と案内板が建っていて、ここが坂口王子の跡とされているのです。


神南備さんによると、坂口王子はこの公園の南西の筋向かいに「狸坂」があってその上り口付近とも言われる、と書いておられます。狸坂はもうありませんが、公園南西の交差点から松屋町筋をみる。やはり坂で、松屋町筋は一段と低いところにありました。

■熊野街道・郡戸王子と高津宮
安堂寺通り、空堀商店街と過ぎて行きます。頃合いをみて、東に寄って行くとありました。高津公園。ここから石段を登っていくと高津宮です。

裏参道からのお参りになりますが、まず目立つのはコレ。

昔、紀伊路をちょっと歩いた時に知りましたが、5代目桂文枝師匠の「熊野詣」では、
「昔から、伊勢へ七度、熊野へ三度てなこと申しまして、お伊勢参り同様、熊野詣でも大変盛んやったそうです。・・・」
と語られ始めていて、お伊勢参りにも迫るようなにぎわいだったようです。
この碑の裏面

そのウォークの時に「なぎ」の木が熊野詣のシンボルのようになっていることを知りました。南紀のどこかの王子に「なぎ」が奉納されていた気がします。

その横には郡戸王子の石碑が建っていました。ここが推定地のようです。

裏面

■比売古曽神社

ヒメコソ神社は上町台地の東の橋、鶴橋あたりにもあります。あちらは、比売許曽神(赤留比賣命)で、同神という考えかたもある。こちらのヒメコソ神社のご祭神は下照姫となっていますが、少し調べるだけでも東の比売許曽神社も含めて、諸説紛々で、神社の成り立ちはよくわからない。
http://www.y-tohara.com/hime-kouzu.html
http://www.y-tohara.com/hime-himekoso.html
アカルヒメとシタテルヒメは渡来神と土着神という違いがあるといいますが、渡来が早いか遅いかの違いで、どちらも女神、光り輝く太陽光の形容であり、太陽神を祀る巫女あるいは「太陽の妻」であったのでしょう。大坂アースダイバーでは大日孁(オオヒルメ)命が大王家によって祀られてアマテラスとなったが、この両女神も元々は巫女・日女(ヒルメ)であったが、大王家とは無関係に、この大坂で子供を産んでに土着し、力強く生き残ったと書いてあり、「大坂のオバチャン」の原形かとも考えられていました。ボクにはなかなか納得できる説明でしたね。詳しくは、大阪アースダイバー(中沢新一著)を参照されたし。
比売古曽神社本殿

■高津宮
本祭神が後回しになっています。高津宮の拝殿。

ご祭神-本座:仁徳天皇。 左座:仲哀天皇・応神天皇・神功皇后、 右座:葦姫皇后・履中天皇
河内王朝(応神王朝)の2代目・仁徳天皇を主祭神とする神社で、貞観8年(866)、清和天皇の勅命による創建という。当初は難波宮旧跡付近にあったと推定されるが、天正11年(1583)、豊臣秀吉の大阪城築城によって当地に遷座させられたという。
本殿横の蔵の脇には、仁徳天皇が生駒で国見をして、「竃の煙がたってるなあ、安心や」と言われたことにちなんだ石碑が建っていました。


■高津宮磐座
見所はまだあります。お稲荷さんの脇を下って行くと・・・・

人工くさい気もしますが、陰陽石が鎮座。一見の価値はあります。

女陰石

男根石

渡来した女神たちが「うちら、ここで生きて行くんや」といった意思の現れでしょうか。その力強さは感じます。
脇の祠にはなぜかウルトラマン。力強い男根にあやかってのことでしょうか?男たちも頑張るんや!

高津宮の展望所
その向こう(西)は崖ットです。東も崖ット。上町台地から突き出た場所の高みに聖性を感じて、祠をつくって、仁徳大王以前の原初的な神々を祀った。高津宮の成り立ちを感じられる地形でした。

■生国魂神社
ここからすぐに生国魂神社です。信号の関係でいったん松屋町筋まででました。
陸橋の上から見る鳥居。生国魂神社で「いくたまさん」です。

こちらも、かなりの坂を登って、さらに高い石垣の上にあります。

写真では傾斜がよくわかりませんが、北面からの「真言坂」

後日、「いくたまさん」を調べていると、真言坂の記述を見つけました。幕末散歩.comさん の「生國魂神社にある八軒家浜の常夜灯と御神燈(燈籠)の話」で、真言坂を上ると生國魂神社の横付近に着き、そこに常夜灯があります。これは八軒家浜にあった常夜灯ということなのです。たしかにあったが写真には撮っていない。また、真言坂は千日前通りまでて途切れていますが、昔はそのまま北までずっと繋がっており、それが八軒家浜周辺まで続いていたと。今日通ってきた道だ。
なかなか渋いサイトでした。こういうウォークをしたいものですが、能力が追い付きません。
http://bakumatsusanpo.com/ikutama-jinjya-hachikenya-jyoyato.html
さて、またしても正門からでなく、横っちょの北門からのお参りです。境内摂社が多数ありますが、心ひかれたものだけ撮影しました。
ふいご神社。産鉄の神々をお祀りしてあります。

源九郎稲荷神社。芸道の神様・八兵衛大明神も合祀されているとか。中座の中にお祀りされていたものです。


これは神様ではありませんが、見たとき笑ってしまいました。文字通り、その先は崖っぷちです。

さて、生国魂神社拝殿。延喜式では、摂津国東生郡『難波坐生國咲國魂神社』二座とあります。生國咲神と生國魂神の二座をお祀りしているのでしょうが、今は、正式には「いくくにたま神社」、さらに、鳥居看板にあったように、もう「いくたまさん」でよいようです。

御祭神は、生嶋神 足嶋神 配祀 大物主神。神武天皇が難波津に到着時石山碕(大阪城付近)に生島、足島神を祀ったのが創祀であるとしています。秀吉の大阪城建造にともない現社地に遷座した(させられた?)。
生嶋(いくしま)神 足嶋(たるしま)神とは、大阪アースダイバーによると、河内王朝のころ、宮中には生嶋足嶋という巫女集団と坐摩という巫女集団がいて海中から生成する島々の行く末を守るための祭祀(八十島祭祀)を執り行っていたという。生嶋足嶋巫女集団は生まれつつある島々の安全な誕生を祈っていた一方、坐摩巫女集団はすでに出来上がった島(上町台地)の安全を祈るための祭祀を行っていた。
ということは、今ある上町台地とこれから生まれるであろう島々の安全を祈る巫女集団が上町台地の北端にいて、のちに神々として祀られるようになった。生国魂神社と坐摩神社は、元あった場所から遷座はしているが、大坂にとってはなくてはならない重要な神々になった。そういう風に理解しました。
米澤彦八の碑。これにも触れておかねば。上方落語の始祖といわれる米澤彦八の功績を称えるため、1990年(平成2年)六代目松鶴の五年忌に際、し彼が生前やろうとして果たせなかった「米澤彦八の碑」を笑福亭仁鶴を筆頭とする一門がその遺志を継ぎ、彦八ゆかりの生国魂神社境内を建立したもの。その翌年の1991年から「彦八まつり」が始まっています。

もう1時15分です。本題は熊野街道九十九王子です。この調子でいけば大阪から抜けられません。昼食がまだなので、近くの食堂を探します。今日中に大阪を抜けられるかどうか?
(つづく)
10:37 八軒屋浜
10:43 御祓筋
10:46 八軒屋船着場 永田屋昆布店前
10:50 ★坐摩神社行宮(1)窪津王子渡辺王子跡
11:11 生国魂神社行宮
11:16 東横堀川
11:40 坐摩神社 11:50
12:11 ★狸坂大明神、(2)坂口王子跡朝日神社跡 12:17
12:23 空堀商店街
12:31 ★(3)郡戸王子跡、高津宮■T休憩 12:56
13:07 いくたまさん 13:14
13:19 生玉前町喫茶店■昼食休憩 13:49
14:04 ★(4)上野王子跡、上之宮社の跡の碑
14:18 ★久保神社、熊野大神宮を合祀『摂津志』に上野王子祠と記載の神社
14:30 北河堀コンビニ■T休憩 14:41
14:50 ★堀越神社、熊野第一王子
15:00 あべのキューズモール■T休憩 15:08
15:35 ★(5)阿倍野王子神社
15:57 万代池■T休憩 16:02
16:06 帝塚山4丁目駅
16:31 ★(6)津守王子候補地
16:48 ★(6)津守王子合祀止々呂支比売命神社
16:57 墨江コンビニ■T休憩 17:09
17:14 遠里小野商店街
17:20 大和川堤防
17:34 浅香山駅
23.8km/7時間6分/内休憩1時間17分
■マップ
青線部分が本日の行程。必要部分を手動で拡大してください。
■参考サイト
熊野古道、九十九王子社 神奈備さん
http://www.kamnavi.jp/kumano/index.htm
大阪府熊野街道マップ
http://www.pref.osaka.lg.jp/doroseibi/kakusyusesaku/rekishikaidou.html#kumano
1.大坂の始まりの地
まずは、ここから、八軒屋浜。

上町台地の北端は古代から渡辺津(わたなべのつ)という港として栄え、上町台地は政治の中心地ともなっていました。江戸時代には、船宿(あるいは民家)が8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」が出入りする淀川舟運の要衝でした。


なにしてんねん?

今の八軒屋浜から京阪シティモールを越して土佐堀通りに面した永田屋昆店の前には船着き場の石碑が建っている。この石碑の裏側にも石碑がありますが、永田屋さんの看板を入れたいのでナナメから。

石町に移動します。
御祓筋と土佐堀通の角に熊野街道始点の石碑があります。平安~鎌倉時代、京から舟で下ってきた熊野詣の一行は渡辺津ここから南へ出発したという。南この地から陸路を歩んだという。

御祓筋を見ると、急な坂を登って行きます。

御祓筋のひとつ東の筋は奥が階段になっていて、登ると北大江公園です。ビルの3Fフロアくらいまでの高低差がありますね。まさしくここが上町台地の突端だったのだ!

上町台地北部のコンターを現す地図を入手しました。土木学会論文集D2(土木史)Vol.68,No.1,1-10,2012、阿部貴弘、篠原修「近世城下町大坂の上町地区における城下町設計の論理」p5、図6から転載したものです。

どないして測ったんや?と思うくらいの微地形が示されていますが、御祓筋の北端はコンターが詰まっていてほとんど崖のようです。そのひとつ西の筋(内骨屋町筋)は傾斜がややゆるやかになりますが、坂は坂。

ここを少し入ると石町で、ビルに囲まれた中に坐摩(いかすり)神社行宮があります。昔の坐摩神社のあったところ。ここが窪津王子(渡辺王子とも)跡と言われています。上記の地図に赤丸で坐摩神社行宮の位置を示しました。



石町の由来となった神功皇后の御座石。しっかりガードされて全く分かりません。

上掲の地図をみると上町台地の崖ットから降りたところ。古代において、ここから先、北は大川の元の流れがあり、湿地か砂州が広がっており、西も湿地か砂州だったでしょう。淀川の堆積物で陸地ができつつあった。南は崖ットを登ると上町台地が南に伸びていた。まさしく、ここが大坂の始まりの地点だった。
坐摩神社はこの後行きますが、ご祭神は坐摩神で、以下の5柱の総称。

◆坐摩神社本宮のご祭神
生井神(いくゐのかみ)-井水の神(生命力のある井戸水の神)
福井神(さくゐのかみ)-井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
綱長井神(つながゐのかみ -井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
波比祇神 (はひきのかみ)-竃神(屋敷神。庭の神)
阿須波神 (はすはのかみ)-竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)
以上、中沢新一著・大坂アースダイバー「大坂の地主神」から。
さらに、
http://www.ikasuri.or.jp/yuisho.html
http://www.y-tohara.com/settu-ikasuri.html
http://kamnavi.jp/ym/osaka/ikasuri.htm
坐摩神について、詳しくは上記を参照いただきたいですが、調べるほどに、この坐摩神は大坂にとってはとても重要な神様です。
以下は、以前調べたものの再掲載。
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2016/01/4-831f.html
------
坐摩神社は天正11年(1583年)秀吉の大坂城築城によって移動させられているが、元の鎮座地は渡辺津などと呼ばれた現在の中央区石町(こくまち、八軒家の近く)にあり、ここには摂津国の国府も置かれていたらしい。そこはかつての淀川河口、もっと昔は堀江を穿った河内湖の出入口で、上町台地の最北端。典型的な聖性地形になっているところである。イカスリとは「ここに居ることを知る」という意味らしく、平たくいうと「ワシは元々からここにおるんやで」ということ。上町台地の、そして大坂の基本的な地主神といってよいだろう。
さらに、元々の坐摩神社の地は河内王朝の宮のある上町台地の突端で、南東には高安山が見え、冬至にはそこから朝日が直にさしてくる。そこでは日を迎える祭祀がおこなわれたらしい。その祭祀を司ったのが都下(ツゲ)国造氏で、その娘たちが日神を迎えて御子を生む神の妻(日妻)としての巫女だった。こで祀られていた霊がイカスリ「ここに居ることを知る」ということらしい。坐摩神社の旧地は河内王朝にとっては重要な聖地だった。
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まさしく、大坂の始まりの地です。熊野詣の道がここから始まったのも頷ける。大阪人なら摂津も河内も一度は来てみるべきかとさえ思います。
内骨屋町筋や御祓筋を南進すると、これまた大坂の重要な神社である高津宮、生国魂神社に突き当たります。どちらも上町台地の西の崖っとにある神社です。
今日は途中で坐摩神社本宮に寄り道しますが、基本的に内骨屋町筋を下って行くことにします。
写真は、内骨屋町筋から東、御祓筋方面を見ています。御祓筋のほうがやや高い。

坐摩神社本宮に寄り道します。行宮だけでなくここも行っとかないと。
拝殿。ご祭神、こちらの成り立ちについては前述した通りです。

陶器神社というのがありました。比較的新しい神社のようでした。


お約束の上方落語寄席発祥の地の石碑
坐摩神社境内にてはじめて「寄席」を建て、坐摩太夫桂文治と言われたそうです。

2.崖っぷちの高津宮と生国魂神社
■坂口王子の跡
もとの内骨屋町筋に戻ってきました。ここを南下します。粉川町の公園(南大江公園)に立ち寄ります。
これは狸坂大明神。

この南横に、朝日神明社跡の石碑と案内板が建っていて、ここが坂口王子の跡とされているのです。


神南備さんによると、坂口王子はこの公園の南西の筋向かいに「狸坂」があってその上り口付近とも言われる、と書いておられます。狸坂はもうありませんが、公園南西の交差点から松屋町筋をみる。やはり坂で、松屋町筋は一段と低いところにありました。

■熊野街道・郡戸王子と高津宮
安堂寺通り、空堀商店街と過ぎて行きます。頃合いをみて、東に寄って行くとありました。高津公園。ここから石段を登っていくと高津宮です。

裏参道からのお参りになりますが、まず目立つのはコレ。

昔、紀伊路をちょっと歩いた時に知りましたが、5代目桂文枝師匠の「熊野詣」では、
「昔から、伊勢へ七度、熊野へ三度てなこと申しまして、お伊勢参り同様、熊野詣でも大変盛んやったそうです。・・・」
と語られ始めていて、お伊勢参りにも迫るようなにぎわいだったようです。
この碑の裏面

そのウォークの時に「なぎ」の木が熊野詣のシンボルのようになっていることを知りました。南紀のどこかの王子に「なぎ」が奉納されていた気がします。

その横には郡戸王子の石碑が建っていました。ここが推定地のようです。

裏面

■比売古曽神社

ヒメコソ神社は上町台地の東の橋、鶴橋あたりにもあります。あちらは、比売許曽神(赤留比賣命)で、同神という考えかたもある。こちらのヒメコソ神社のご祭神は下照姫となっていますが、少し調べるだけでも東の比売許曽神社も含めて、諸説紛々で、神社の成り立ちはよくわからない。
http://www.y-tohara.com/hime-kouzu.html
http://www.y-tohara.com/hime-himekoso.html
アカルヒメとシタテルヒメは渡来神と土着神という違いがあるといいますが、渡来が早いか遅いかの違いで、どちらも女神、光り輝く太陽光の形容であり、太陽神を祀る巫女あるいは「太陽の妻」であったのでしょう。大坂アースダイバーでは大日孁(オオヒルメ)命が大王家によって祀られてアマテラスとなったが、この両女神も元々は巫女・日女(ヒルメ)であったが、大王家とは無関係に、この大坂で子供を産んでに土着し、力強く生き残ったと書いてあり、「大坂のオバチャン」の原形かとも考えられていました。ボクにはなかなか納得できる説明でしたね。詳しくは、大阪アースダイバー(中沢新一著)を参照されたし。
比売古曽神社本殿

■高津宮
本祭神が後回しになっています。高津宮の拝殿。

ご祭神-本座:仁徳天皇。 左座:仲哀天皇・応神天皇・神功皇后、 右座:葦姫皇后・履中天皇
河内王朝(応神王朝)の2代目・仁徳天皇を主祭神とする神社で、貞観8年(866)、清和天皇の勅命による創建という。当初は難波宮旧跡付近にあったと推定されるが、天正11年(1583)、豊臣秀吉の大阪城築城によって当地に遷座させられたという。
本殿横の蔵の脇には、仁徳天皇が生駒で国見をして、「竃の煙がたってるなあ、安心や」と言われたことにちなんだ石碑が建っていました。


■高津宮磐座
見所はまだあります。お稲荷さんの脇を下って行くと・・・・


人工くさい気もしますが、陰陽石が鎮座。一見の価値はあります。

女陰石

男根石

渡来した女神たちが「うちら、ここで生きて行くんや」といった意思の現れでしょうか。その力強さは感じます。
脇の祠にはなぜかウルトラマン。力強い男根にあやかってのことでしょうか?男たちも頑張るんや!

高津宮の展望所
その向こう(西)は崖ットです。東も崖ット。上町台地から突き出た場所の高みに聖性を感じて、祠をつくって、仁徳大王以前の原初的な神々を祀った。高津宮の成り立ちを感じられる地形でした。

■生国魂神社
ここからすぐに生国魂神社です。信号の関係でいったん松屋町筋まででました。
陸橋の上から見る鳥居。生国魂神社で「いくたまさん」です。

こちらも、かなりの坂を登って、さらに高い石垣の上にあります。

写真では傾斜がよくわかりませんが、北面からの「真言坂」

後日、「いくたまさん」を調べていると、真言坂の記述を見つけました。幕末散歩.comさん の「生國魂神社にある八軒家浜の常夜灯と御神燈(燈籠)の話」で、真言坂を上ると生國魂神社の横付近に着き、そこに常夜灯があります。これは八軒家浜にあった常夜灯ということなのです。たしかにあったが写真には撮っていない。また、真言坂は千日前通りまでて途切れていますが、昔はそのまま北までずっと繋がっており、それが八軒家浜周辺まで続いていたと。今日通ってきた道だ。
なかなか渋いサイトでした。こういうウォークをしたいものですが、能力が追い付きません。
http://bakumatsusanpo.com/ikutama-jinjya-hachikenya-jyoyato.html
さて、またしても正門からでなく、横っちょの北門からのお参りです。境内摂社が多数ありますが、心ひかれたものだけ撮影しました。
ふいご神社。産鉄の神々をお祀りしてあります。

源九郎稲荷神社。芸道の神様・八兵衛大明神も合祀されているとか。中座の中にお祀りされていたものです。


これは神様ではありませんが、見たとき笑ってしまいました。文字通り、その先は崖っぷちです。

さて、生国魂神社拝殿。延喜式では、摂津国東生郡『難波坐生國咲國魂神社』二座とあります。生國咲神と生國魂神の二座をお祀りしているのでしょうが、今は、正式には「いくくにたま神社」、さらに、鳥居看板にあったように、もう「いくたまさん」でよいようです。

御祭神は、生嶋神 足嶋神 配祀 大物主神。神武天皇が難波津に到着時石山碕(大阪城付近)に生島、足島神を祀ったのが創祀であるとしています。秀吉の大阪城建造にともない現社地に遷座した(させられた?)。
生嶋(いくしま)神 足嶋(たるしま)神とは、大阪アースダイバーによると、河内王朝のころ、宮中には生嶋足嶋という巫女集団と坐摩という巫女集団がいて海中から生成する島々の行く末を守るための祭祀(八十島祭祀)を執り行っていたという。生嶋足嶋巫女集団は生まれつつある島々の安全な誕生を祈っていた一方、坐摩巫女集団はすでに出来上がった島(上町台地)の安全を祈るための祭祀を行っていた。
ということは、今ある上町台地とこれから生まれるであろう島々の安全を祈る巫女集団が上町台地の北端にいて、のちに神々として祀られるようになった。生国魂神社と坐摩神社は、元あった場所から遷座はしているが、大坂にとってはなくてはならない重要な神々になった。そういう風に理解しました。
米澤彦八の碑。これにも触れておかねば。上方落語の始祖といわれる米澤彦八の功績を称えるため、1990年(平成2年)六代目松鶴の五年忌に際、し彼が生前やろうとして果たせなかった「米澤彦八の碑」を笑福亭仁鶴を筆頭とする一門がその遺志を継ぎ、彦八ゆかりの生国魂神社境内を建立したもの。その翌年の1991年から「彦八まつり」が始まっています。

もう1時15分です。本題は熊野街道九十九王子です。この調子でいけば大阪から抜けられません。昼食がまだなので、近くの食堂を探します。今日中に大阪を抜けられるかどうか?
(つづく)
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