2017年2月22日


 紀伊路4日目です。
 今日から紀州、紀伊國に入ります。 紀州は高野山を除いて紀ノ川以南はあまり行ったことがない。未知のくにへ行くようで、なにかわくわくします。
 紀州の王子跡は、世界遺産指定促進のためか和歌山県が精力的に整備して標石、案内板を建てています。かつ、熊野街道はイナカを通るためか、今なお王子跡が信仰の対象として生きている感じがします。さすが木の国、それがヨソではマネのできない紀州のかけがえのない特徴だと思います。
 本日は伊太祈曽まで歩きましたが、前半の紀ノ川を渡るまでのレポートです。

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◆紀伊國最初の王子 中山王子跡
■コースタイム

8:24 JR山中渓
8:40 ■トイレ、朝飯休憩 8:54
8:59 県境、葛城修験行所、境川
9:05 滝畑
9:06 ★(24)中山王子跡
9:35 雄ノ山峠
9:39 役行者祠■休憩 9:43
10:04 ★(25)山口王子跡
10:19 湯屋谷、山口神社分岐、道標
10:23 山口神社鳥居
10:26 谷コンビニ■休憩 10:36
10:44 ★(25)山口神社 10:53
11:01 上黒谷
11:15 観音堂前
11:19 ★(26)川辺王子跡
11:30 神波
11:42 ★(27)中村王子社跡
11:46 ★力侍神社、(27)(26)川辺王子跡■休憩 12:08
12:11 川辺バイパス横断
12:15 川辺ショートカット、農道になる
12:25 堤防下古道合流
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12:28 川辺橋北詰
12:38 川辺橋南詰
12:53 和歌山線踏切横断
12:55 ★(28)吐前王子跡
13:11 ★(29)川端王子跡
13:20 小栗橋分岐
13:25 井ノ口
13:32 和佐小学校
13:37 旧中筋家住宅
13:41 祢宜、茶店■昼食休憩 13:58
14:03 ★(30)和佐王子跡
14:09 古道合流、峠道分岐
14:10 役行者像
14:16 矢田峠、峠地蔵 14:21
14:22 古道/作業道分岐
14:33 明王寺
14:48 平尾、県道横断
14:55 ★(31)平緒王子跡
15:00 ★(31)都麻都比売神社 15:05
15:13 和歌山電鉄踏切
15:15 全面通行止、引き返し
15:28 伊太祈曽駅

■マップ



1.雄ノ山峠越え


8:24、山中渓出発
 今日は6時前に家を出たので、だいたい1時間40分ほどで到着した。ただし朝飯もなにもなし。駅のベンチでパンでも食べようかと思っていたら掃除中だった!これから雄ノ山峠を越える。
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ここでちょっとトイレ&朝飯。わはは!JRの鉄橋をくぐる道がずっと続いていた。
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8:53、紀泉国境を越える。ここは日本最後の仇討ち場、さらに葛城修験の行所でもあります。
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 9:05、滝畑に入ると大きな看板があります。紀伊路を歩いてみようと思った理由の一つが、葛城二十八宿経塚巡行の折にこれを見かけたことなのでした。
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 線路を渡るとすぐに中山王子跡。鉄山氏によると、ここが王子権現跡ということで、葛城修験三の宿の行所になっているらしい。以前、傍を通りながらパスしてしまった所でした。
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中山王子跡
 かつて、京都から熊野三山までの熊野参詣道、八十余か所の王子社が祀られていました。王子社というのは、俗に、「熊野九十九王子」といわれる熊野権現の御子神を祀る社のことです。中山王子は紀伊国に入って最初の王子社で、藤原定家の日記、建仁元年(1201)十月八日条に、その名が見られます。また、この付近は「雄の山中」といわれた所から、藤原頼資の日記では「山中王子」と書かれ、承元四年(1210)四月二十四日条に、修明門院が山中王子に参拝し、峠で雄山の人たちや無縁者等に、帷五、六十両ほどを、ふるまったと記されています。江戸時代には、道沿いに、周囲三十六間の境内があり、王子権現社が祀られていたようですが、明治時代に春日神社に合祀され、旧跡も鉄道の敷設によって無くなりました。
和歌山県の案内板より

9:35、雄ノ山峠の最高地点付近。府道(県道)なので峠は不明瞭です。
ここより少し手前、大阪側に狼谷の分岐がありました。郷ノ峠を越える道。この道も一度歩いてみたい。
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峠の不動明王
「路傍に立ち風雪に耐えて幾百年 旅人の安全を守って下さいました」
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修験の行者さんも来ておられるようで、「葛城二十八宿・・・」のヒデも奉納してあった。
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 数分休んで出発。まもなくヘアピンカーブ。今回は下りでよいのですが、かなりの急坂です。登りは大変だろう。熊野詣の人々も「帰りは難儀やなあ」と思いながら下ったに違いない。
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ヘアピンカーブを降りたところに、峠道らしくお地蔵さん。
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さらにまたお地蔵さんの集積。
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10::00、阪和道に京奈和道が接続するらしい。気持ち悪いほどの高い陸橋で、地震でもあったら折れるんではないかと思うほどです。ほんとに大丈夫か?
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湯屋谷への道が分岐して、すぐに山口王子跡がありました。
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 この地は、かつて、雄の山口の湯屋と言われていました(現在も湯屋谷という地名があります)。永保元年(1081)九月二十五日、藤原為房は、ここから国府の南路。日前宮を経由して藤代に向かっています。王子社名は、藤原定家の日記、建仁元年(1201)十月八日条や、藤原頼資の日記、承元四年(1210)四月二十四日条に見られます。定家は後鳥羽上皇に、頼資は修明門院に随行した時に、日記を書き残したのです。天保十年(1839)に完成した「紀伊続風土記」にあ、三橋王子とも書かれており、江戸時代には、境内の周囲が三十二間の王子権現社であったことが知られます。この王子社は明治時代の神社合祀で、山口神社に合祀されました。なお、古代に雄山に置かれていた関所は白鳥関と呼ばれており、白鳥伝説を残しています。
和歌山県の案内板より

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万葉歌碑も設置されていました。
「 わが背子が 跡ふみ求め追ひ行かば 紀伊の関守 い留めてむかも 」

2.湯屋谷から山口神社

10:09、湯屋谷
 湯屋谷に入ってすぐ、「山口神社へ近道」の分岐がありました。こちらに入ってもよいのですが、コンビニに立ち寄りたいので、まっすぐ行きましたが・・・・
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 後で考えると、近道を山口神社まで行って、まっすぐ南下してコンビニに立ち寄ったほうが近いようなのでした。
湯屋といえば温泉でが、この湯屋は熊野参詣人のための接待所・救護所のことです。話がずれますが、現在、Lubuntu16.04を起動させており、日本語入力はMOZCを使っています。この日本語変換はすぐれものなので好んで使っていますが、それで、「ゆや」を変換すると、「熊野」が出ます。熊野は「ゆや」とも読むのか!

紀州に入っても、このタイプの農小屋を見かけます。泉州、紀州に共通のようでした。
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0:19 湯屋谷、山口神社分岐、道標
ここを入るのが正規の熊野街道のようです。角の墓地の中に道標が・・・
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右 加太 淡島神社 こちらの方に進みます。
左は 和歌山 上淡路街道という名前らしい。
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加太への道、山口神社への道
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10:23、山口神社参道の辻にあったお地蔵さん祠。鳥居の横です。resizeR7320061-19r

コンビニに寄って食料調達など用事を済ませてから山口神社へ向かいました。
参道が長い!
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10:44、山口神社 ニノ鳥居、さらに奥には拝殿というか神楽殿というか社務所を兼ねたような社屋。
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 二社が並立します。向かって左(西側)が日吉神社、向かって右が春日神社ですが、時間が経ってしまって、どちらが右だったのか左だったのか?
 明治四十二年、山口王子社、白鳥神社をはじめ、山口村各地の神社を合祀したのを機に、山口神社と改称したという。主祭神は伊久津比売命ということですが、どういう女神なのか分かりません。
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右社殿の右奥になにやら石碑がありましたが、はて?
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小石で鳥居が形どってありましたので、重要な神様のようですが・・
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鳥居の外の民家(これが社務所かも?)の脇には古そうな石碑、石仏が安置されていました。真ん中の石像には「宝暦十一年」とあります。
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 お参りをすませて、参道途中から脇道に入りました。できるだけ国道は歩きたくないので上黒谷に入っています。緩やかな斜面に段々になった畑、そこに曲がりくねった小道が走る。なかなかの風景です。
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こういうところを歩きたいのですが、しかたなく国道に。
こういうおもしろいものもありますが・・・・
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国道はこんな感じで、あまり歩く気が出てきません。クルマはそこそこ通るので、冷や汗ものです。
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 大阪府や和歌山県の熊野古道の案内マップは車道を通るように書いてあるのですが、ここはそれを無視してでも里道や農道を通ったほうがよいでしょう。おすすめ(と言っても通っていないのですが・・・)のルートを地図にエンジ色の線で描いておきました。

3.熊野街道は紀の川の低地へ降りてゆく

 11:15、観音堂前で左折します。普通の集落の中の道で、こみちが分かれましたが、この道を行くわけではありません。農道ですがあまりにかわいらしい路だったので撮ってみました。
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 村の中の小道をカクカク曲がりながら、西蓮寺を過ぎたところにありました、川辺王子社(跡)(11:19)。
今までは、いかにも「跡」という感じがする王子跡だったですが、ここもは「跡」らしくない王子跡で、往時の王子社もこんな様子だったのかと思えるような川辺王子跡でした。
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  川辺王子社は元々は八王子社らしく、今は力侍神社に合祀されています。その力侍神社は初め川辺の神波にあって、それが川辺王子(八王子社)の境内に移され、さらに川辺王子社もろとも現在の力侍神社の地に遷座したと伝わります(続風土記、神奈備さん)。 resizeR7320110-32
社屋内の庭?には灯籠や石祠がたくさん安置されています。 resizeR7320119-33

11:24、川辺王子跡を辞去。川向うの高積山(手前)、城ヶ峯が見えます。 resizeR7320131-34

丘を降りてきて、低地にあるタンボに来ました。川辺王子は丘の上にあったのだ。この低地は、紀の川の洪水に寄って氾濫原になっていたのだと容易に推定できます。 resizeR7320133-35

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 タンボの中の神波という在所を通り、はやくも咲いていたレンゲを見ながら、中村王子跡に着きました(11:42)。
辺りは古くからありそうな家がまばらに建っている集落です。畑の縁に看板が建っているだけの王子跡でした。
 紀州街道は今歩いてきたルートですが、川辺王子跡を西の先端にして大きく湾曲しています。これは紀の川の氾濫湿地を迂回するようにしてできた湾曲ではないかと思います。
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中村王子社は近くにある力侍神社神社に合祀されています。
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 路傍にある地蔵祠
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11:46 力侍神社鳥居
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ここには、川辺王子跡と大書されていますが、中村王子社を合祀とは触れられていません。川辺王子は遷座してkたとされていますが、元々ココにあったという考え方もあるらしい。
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ここの観光トイレはすばらしい。当然にもシャワートイレでした。
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向かって右が、八王子社
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向かって左が、力侍神社
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ご祭神は天手力男命。

 この小社は、社前の看板には楠大明神となっていました。同じようyな小社があり、それは牛滝社とありました。
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案内板はもう読めません。
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 神社の参詣路の横のタンボのあぜ道で20分ちょっと休憩しますした。すぐ近くにはイズミヤ、ニトリ、ケーズデンキなどが進出してきています。咲いていたレンゲをパチリ。
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 これから紀の川を渡ります。国道を渡ったあとで少しショートカットしようと横着心を起こし、近道を行ったつもりが農道に吸収され、終いにあぜ道を歩くはめになりました。おとなしく正規の街道を堤防まで行って、堤防に上がるか、堤防下の水路路を歩くのが正解なようでした。
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川辺大橋の手前から、堤防道と堤防下の水路道を見る。
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これからいよいよ紀の川を渡ります。




(続く)