2017年2月22日


 紀伊路4日目の続きです。
 今から紀ノ川を渡って、小さな峠を越します。紀の国の風景、特に植生を見ていると、日常見ている山々と違う感じがします。果樹の国。この果樹が風景を決めている。しかし、街場はどこにでもある風景になって来ています。ちょっと残念な対比を感じながら、矢田峠を越して伊太祈曽まで来ました。

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◆平緒王子跡
■コースタイム
12:28 川辺橋北詰
12:38 川辺橋南詰
12:53 和歌山線踏切横断
12:55 ★(28)吐前王子跡
13:11 ★(29)川端王子跡
13:20 小栗橋分岐
13:25 井ノ口
13:32 和佐小学校
13:37 旧中筋家住宅
13:41 祢宜、茶店■昼食休憩 13:58
14:03 ★(30)和佐王子跡
14:09 古道合流、峠道分岐
14:10 役行者像
14:16 矢田峠、峠地蔵 14:21
14:22 古道/作業道分岐
14:33 明王寺
14:48 平尾、県道横断
14:55 ★(31)平緒王子跡
15:00 ★(31)都麻都比売神社 15:05
15:13 和歌山電鉄踏切
15:15 全面通行止、引き返し
15:28 伊太祈曽駅

24.7km/7時間(GoogleMap読み)


■マップ



1.高積山を見つつ紀の川を渡る



 タイトルの通りです。 12:28から渡り始めて約10分かかりました。大河です。天気予報どおり、少々曇ってきました。
 秀麗な山は高積山。布施屋あるいは紀の川以北の里からみると、どう見たって神奈備でしょう。頂上に都麻都比売(つまつひめ)・大屋都比売(おおやつひめ)・五十猛の三神を祀る。紀ノ国に木の種を伝えた素戔鳴尊の御子、3人の兄妹神です。三神は元々、伊太祈曽に祀られていたようですが、文武天皇の大宝2(702)年に三神分祀の勅令により五十猛命は伊太祈曽に、都麻都比売命は高山(ココ)に、大屋都比売命は川永宇田森に分祀されたという。http://www.wasa2004.com/takatumizinzya1.html
 和佐王子、川端王子を合祀するというので、本来ならば登るべきでしょうが・・・・ちょっと時間が足りません。
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 紀の川を川辺橋で渡って(以前は、少し東に渡し場があったようですが)、熊野街道はさらに東に向かい、大迂回するように吐前王子があります。地図を見ただけで、なんで?と思いますが、理由は分かりません。狭い上に自動車の多い大和街道を歩くだけです。車さえすくなかったら、味わい深い街道なのですが。

12:53、JR和歌山線を横断します。
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12:55、突然道端に現れました。吐前王子跡。
この看板の北東の高みに王子権現があったらしいですが、今は削平されて畑です。(西向きに撮っています)
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 ここから布施屋の駅方向に引き返します。ルートはかなり南の方の街道を歩きますが、まさに引き返す感じ。この街道も紀の川南岸の街道らしく、落ち着いた道でちょっとゆっくり歩きたい道なのですが、正午をまわり曇ってきたので、気もそぞろという感じで急いでいます。

13:11 川端王子跡。
「続風土記」では川端王子社は、「昔は村の西七町小栗街道にあり・・」と記されています。村の西七町小栗街道とは、これから行くJR和歌山線の踏切の近く、あるいは小栗橋近くということです。建仁元年の後鳥羽上皇の熊野詣でに随行した藤原定家の「御幸記」には「川端王子」の名前はみえないので、それ以後に設置された王子社という説もあります。
http://www.wasa2004.com/kawabataouzi1.html
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 高積山が大きくなってきました。右に城ヶ峯が頭を出しています。城ヶ峯は文字通りで、昔、山城があったと考えられています。高積山周辺には金が(小判が)埋まっているという話もある。
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13:19、この辺りが「村の西七町」付近のはずですが・・・
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JR踏切付近。この先70mほどで小栗橋ですが、行きませんでした。
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道標にしたがって和佐王子に向かいます。
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13:28、井ノ口あたり。このあたり、古道は複雑に折れ曲がりますが、親切にも道標は完備しています。
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水がきれいだった時代は洗い場だったのでしょう。
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13:32、このあたりでの旧家といえば旧中筋家住宅ですが、まだ和佐小学校の北ですから中筋家とは違います。それにしてもデカイ長屋門。
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 旧中筋家住宅(江戸時代後期の和佐組大庄屋屋敷)は一般公開されていますが、3月〜11月の土日祝だけです。今日は何かの催しがあるのかスタッフが入っていました。写真はなし。http://wakayamacity-bunkazai.jp/nakasujike/

横から高積山を見る。せめて高積神社の下社には行っておくべきだったか。
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禰宜というところに来ています。街道脇にあった地蔵祠二題。
(その1)
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(その2)
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 上の地蔵祠の裏手には茶店がありました。峠を越える前の絶妙な場所にあります。ここでお茶、コーヒーを補給し昼食休憩(13:41〜13:58)。ベンチもあるので大助かりです。
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うめsmall

14:03、和佐王子跡
 江戸時代初期には二社の和佐王子社があり、一社は川端王子、もう一社が和佐王子だったという。そして寛文年間(1661〜1672)に、紀州藩主徳川頼宣がココを和佐王子と定めた。ややこしいことに、「紀州続風土記」では川端王子を和佐王子と称し、ここは、地名から坂本王子と言ったが、それはちょっと無理と案内板には書いてあります。
 今は和佐王子社は高積神社に合祀されています。
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はあ、松下幸之助さんはこの近くの出身なのか。
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 さて、ここから峠越の登りですが、道を間違ったというか、横着したというか、県道を歩いてしまいました本来は池の間の細い道を登るのでした。ここの看板の矢田峠道の位置に注意。

2.矢田峠越


14:09、 峠近くまで上がって来ました。本来の熊野街道は、ここの左手に上がってくるのでした。
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反対側の古道入り口
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旧道を入ってすぐに祠があります。役行者祠。
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伝統的な?お顔の役行者。うまく写りませんな。
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旧街道はコンクリ舗装ですが、倒木、倒竹で荒れています。
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階段があるとは!
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14:16、矢田峠着。深い切り通しで峠らしい峠です。右手の崖の上には何やら石碑が建っていました。
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徳本上人の「南無阿弥陀仏」の碑。この字は特徴的で徳本文字と言われているようです。
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石仏二体
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 相当深い切り通しで、単なる巡礼道の他に、布施屋と伊太祈曽を結ぶ幹線だったのでしょう。今は県道がトンネルで通じていますが、かなり車が多くこの道は幹線であることがわかります。実によい峠です。再度撮っておきましょう。
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 切り通しを出たあと、道は2つに分かれます。右が正規の熊野街道のようですが・・・和歌山県の熊野街道マップは左を指示しています。
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 和佐王子跡の公園で見た「和佐文化財マップ」によると、熊野街道は今登ってきたルートでなく、先ほどの登り口のやや北の谷を登ってきて、1つ東のコブを巻いてこの峠に至る道筋が描かれていました(地図に紫の線で記入してあります)。そのルートだと、ここの右の道に入ってくるのが自然なようです。要するに、時代によって熊野街道のルートはいろいろ変わってきたのだと思います。
 右の道は県道に合流する区間があるので、ここは左に入ります。よい道だ。
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明王寺の集落を見下ろす。ミカン山の作業道ですが、街道としてもよいでしょう。
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梅林
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美しい石垣。
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この里道はクルマの心配をせずにのんびりと歩けます。

14:45、竹やぶの切り通しを越えると、県道にクロスして、矢田峠で分かれた古道に合流します。
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14:48、平尾で県道を横断
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すぐに古道に合流します。
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3.平緒王子跡から伊太祈曽
 書き忘れていますが、この手の案内板が要所要所に埋め込まれています。ボクは地図を主体に見ているので、今まで頓着したことはありませんでした。どこからあるんだろう?
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ここも石垣の美しい村、平尾。
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14:55、平緒王子跡。平尾自治会館の場所です。
 平緒王子は天正13年の羽柴秀吉の紀州攻めの後、衰退し、その後再建されたが、明治時代により都麻津比売神社に合祀されたと書いてあります。明治の神仏分離という宗教改革(という名の弾圧?)は、全国津々浦々の神々をやみくもに合祀したり、修験道を弾圧したりで、秀吉の紀州攻めと同じかそれ以上の害をもたらしたといえそうです。秀吉は事後、荒廃した神社を再建したというのに・・・・
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 合祀先の都麻津比売神社は、西、すぐ近くの丘の上です。和歌山県神社庁のサイトでは都麻都姫神社としていますが、近くの吉礼にも都麻津姫神社(和歌山県神社庁サイトによる)があり、混乱します。いずれにせよ、ご祭神は都麻津姫(比売)命で、高積神社のところででてきたように、文武天皇の大宝2702年、五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命の三神が分遷された際の都麻津姫命神社とされています。都麻津姫命は五十猛命の妹神でしたね。

15:00、都麻津比売神社鳥居
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荒れた参道を上がっていくと、広場があって・・・
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小さな祠がありました。ちゃんとお参りされているのかどうか?
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平緒王子跡、合祀先参拝を終えたので、伊太祈曽神社に向かいます。

15:13、貴志川線の踏切
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口須佐に入ろうとすると・・・・何!全面通行止め! まあ、迂回すれば済むことなんですけど・・・
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 またまた横着心を起こして、田んぼの道を探そうとしています。横着心は通じることもなく、農道は行き止まり、あぜ道も向うには水路があるので行けそうもなく・・・横着心はあえなく粉砕されました。
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テンションはダダ下がりで伊太祈曽神社でなく、伊太祈曽の駅に向かいました。

15:28、伊太祈曽駅
ここで初めて、伊太祈曽は「いたきそ」でなく「いだきそ」であることを知る。
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 伊太祈曽駅には、ニタマならぬ「よんたま」がいます。和歌山電鉄のサイトによれば、駅長見習いだとか。見習いが昼寝しちゃあかんと思うけど。フラッシュを炊いたけど無視されました。
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ニワカてっちゃんとなり、貴志川線名物「いちご電車」
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南海カラーの電車と入ってきたOMOCHA電車。
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 この電車、外装も心を惹きつけるところがありますが、内装もすばらしい。ニタマ駅長だけでなく、会社一同の頑張りが見えてきました。一度乗ってみてください。

 3時半着で、海南まで行くにはちょっと遅いし、帰るには少し早い中途半端な時間ですが、今日はこれで終了とします。



(とりあえず終り)