2017年2月27日

 紀伊路を歩く5日め。伊太祈曾から紀伊宮原まで峠を3つ越えます。
 見るものすべてが新鮮です。紀ノ川を越えて南は、高野山、中辺路、そして印南、切目あたりの紀伊路の他は、内陸深くは歩いたことがありません。そのせいもあるでしょう、捨てがたい風景に多く出合えました。あまりに捨てがたいので写真が多く3セクションに分割しました。
 まずは、伊太祈曾から海南の菩提房王子まで

rs-R732050918
◆ピカピカの奈久智王子跡
■コースタイム

9:08 伊太祈曾駅
9:17 伊太祁曽神社 9:27
9:33 六地蔵
9:41 須佐神社
9:46 ★(32)奈久智王子跡
10:02 武内神社
10:16 ★(32)奈久智王子:紀伊風土記版 10:24
10:27 休憩 10:31
10:39 多田 四つ石地蔵
10:55 ★(33)松坂王子跡
11:03 クモ池熊野古道石畳
11:10 汐見峠呼び上げ地蔵尊
11:29 ★(34)松代王子跡、春日神社 11:37
11:45 大野中信号コンビニ■昼食休憩 12:04
12:08 ★(35)菩提房王子跡
-------------------
12:19 熊野一の鳥居跡三叉路
12:22 祓戸王子跡入口看板
12:28 ★(36)祓戸王子跡
12:40 鈴木屋敷
12:42 ★(37)藤白王子跡、藤白神社■休憩 13:01
13:05 藤白坂一丁石
13:18 七丁石地蔵尊
13:32 十四丁筆捨松、硯石
13:41 ★(38)藤代塔下王子跡、地蔵峯寺、御所の芝 13:49
14:13 ★(39)橘本王子、阿弥陀寺
14:17 橘本土橋
14:22 ★(40)所坂王子跡、橘本神社 14:27
-------------------
14:40 市坪、沓掛分岐
14:42 ★(41)一壷王子跡、山路王子神社 14:46
15:05 弘法寺児童会館■昼食休憩 15:18
15:25 沓掛分岐
15:36 拝ノ峠
15:42 道間違い
15:46 万葉歌碑
15:54 ★(42)蕪坂塔下王子跡
15:59 太刀の宮
16:07 爪かき地蔵
16:10 農道分岐■休憩 16:21
16:30 ★(43)山口王子跡
16:38 伏原の墓
16:56 紀伊宮原

24.2km/7時間46分(山旅ロガー読み)

■マップ




1.「いだきそ」or「いたきそ」

9:08、2回めの伊太祈曾駅です。
rs-R732045501

 前回、この駅まで来て、伊太祈曽(または、IME変換によっては、伊太祈曾)は「いだきそ」であることを知ったのですが、今回は「いだきそ」の蘊蓄から。

9:17、イタキソ神社の案内板
なに!「伊太祈曽」でなく「伊太祁曽」神社ですと。
rs-R732045702

そこで、イタキソ神社の公式サイトを見てみると、
伊太祁曽神社の読みかたについて
http://itakiso-jinja.net/yuisho.php
・伊太祁曽神社は 「いたきそじんじゃ」 と読みます。
・尚、神社の鎮座する土地は 伊太祈曽(イダキソ)と濁音になりますが、これは和歌山訛りではないかと考えられています。

漢字も違うし、読み方も違うんや!これは初めて気がつきました。

さらに、
「神社名の由来ははっきりとわかりませんが、五十猛命は我が国に樹木を植えたことから有功神(いさおしのかみ)の別名があります。日本では船や家屋は木から造られ、さまざまな道具も木を用いて造られました。また薪は暖をとったり煮炊きをするのに必要であり、大切な燃料でもありました。これらの大きな功績を讃えて、有功神(=大変功績のあった神様)と呼ばれるようになったのです。また、この神様はイタテの神とも呼ばれます。イタケルノミコトのイサオシ、またはイタテの神のイサオシから 「イタケイサオ」「イタテイサオ」、これがつづまって 「イタキソ」 となったという説があります。」

五十猛命(いたける)+有功神(いさおし)
→いたけいさお→いたきそ
バンザーイ!確かに、早口で(けいさお)を繰り返してみると(けそ)→(きそ)になってもおかしくない。

 そういえば、六十谷の近くに有功小学校や中学校があったなあ。いさお中学校か。調べてみると、近くに伊達神社があります。そこもイタテ神を祀っています。なお、昔は、有功村というのがありましたが、1958年に和歌山市に吸収合併。「有功」という名前は学校か郵便局にしか残っていない。よくあるパターンですが、今の地名は、和歌山市園部か六十谷です。「有功」がいややったんか?

それでは改めて
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)
主祭神:五十猛命(いたけるのみこと、あるいは、イタテ)。「いそたける」ではないと、公式サイトに書かれています。
 高天原を追われた素戔嗚尊は、子である五十猛神と共に新羅国に天降りますが、その地は気に入らず埴土で船を造り出雲国にやってきた。新羅には種を撒かず、九州より播き始めてこの土地を青山にしました。このことから有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)と呼ばれています。紀伊国に静まる神がこの神様です。
以上、伊太祁曽神社公式サイトから

鳥居
rs-R732046103

rs-R732048411

厄除け木の股くぐり。さすがに、木の国の神社です。 rs-R732046504

拝殿
rs-R732046605

本殿を覗かせていただきました
rs-R732047407

脇殿には五十猛命と、その妹神である大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、都麻津姫命(つまつひめのみこと)をお祀りしています。

都麻津比売命
rs-R732047508

大屋津比売命
rs-R732047709

氣生神社は五十猛命の荒御霊をお祀りする摂社です
rs-R732046906

御神木のナギ
rs-R732048110

 伊太祁曽神社、まさしく木の国にふさわしい神社でした。10分ほどで辞去、次に向かいます。

2.2つの奈久智王子跡

9:33、六地蔵。残念ながら祠の中は全然見えません。写真でもガラスが写るだけで、なにななんやら?
rs-R732049112

古街道らしく、お地蔵さんは点々といらっしゃる。
rs-R732049313

須佐神社
rs-R732049614

また、地蔵さん
rs-R732049915

rs-R732050016

9:46、奈久智王寺社跡の看板が現れました。
名草の口ということか。
rs-R732050517
ここを約20m登って行くと・・・
rs-R732051621

木の陰に祠が現れました。
rs-R732051220
祠は新しい。
rs-R732051019
金ぴかではないですか。
rs-R732050918

 熊野古道のブームということもあるでしょうが、現代でも古の王寺社の祠を新しくしてちゃんとお祀りするスピリットは清々しい。

 県道に戻って、奥須佐の先の県道分岐のところで、広い道に行ってしまいました。どちらでも同じなのですが、正規の古道はまっすぐ細い道を行くのでした。

10:02、武内神社
rs-R732051822

 武内宿禰の産湯の井戸があるようです。ここで生まれたことになっているのか?
 記紀によれば「武内宿禰」は景行、成務、仲哀、神功皇后、応神、仁徳の六代の天皇に仕え、年齢は「三百六十余歳」にもなると考えられてきた、あの人物ですね。実在性はあるとされていますが、300歳余りというのはあり得ないので、多数の事績を集めて創作されたという見方や、当時は年の数えかたショートだったとか言われています。それはさておき、長寿だったということでしょう。紀氏の出身で波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏の祖であるとされています。しかし、六代の天皇に仕えたとか、有力氏族の祖というのは、大王に次ぐような力のある人物だったのでしょう。
 そういえば、イナカの「高蔵神社」のご祭神は武内宿禰でした。
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/ayabe3.html

rs-R732051923

拝殿
rs-R732052024

格子の間から本殿を見る
rs-R732052125

武内宿禰誕生の碑
rs-R732052526

これが産湯の井戸らしい
rs-R732052927

10:12、山あいを阪和道に平行して歩くと分岐があります。あのこんもりした丘の麓にもうひとつの奈久智王寺社跡があるということですが・・・
rs-R732053528

大小の丘の間を新しい道が走っています。あの丘をめざす。
サイズ変更R7320537cut

予め調べておいた地点は竹やぶでした。周辺をウロウロししたが、見つからない。
rs-R732054330

あきらめて、帰ろうかと道に出たところ・・・・・赤い涎掛けが目に入りました。
rs-R732055934

お地蔵さんが寝転がっています。ここを登っていくのでしょう。
rs-R732054731

なんじゃこれは?
rs-R732055133

 真新しい祠が安置されていました。案内板などはありませんが、多分ここがもう一つの(続紀伊風土記にある)奈久智王寺社跡でしょう。新道開通に伴い、祠を新調したのでしょう、先程あった奈久智王寺社の祠と似ています。。以前ネットでみたのと様子が違いました。
rs-R732054932

旧街道は右手です。
rs-R732056135

10:26、丘を回り込んで行くと新しい地蔵祠がありました。
rs-R732056937

  新しいのは祠だけで、お地蔵さんは古いもののようです。お顔の判別はできません。このお地蔵さんは、先程の続紀伊風土記にある奈久智王寺社の前にあったというもので、新道開通に伴い、場所を変えて祠を新調したのでしょう。ちょっと安心しました。
rs-R732056636

10:27、低い丘を回り込んで新道に合流したところで5分休憩。

3.松坂王子跡から汐見峠越
  屏風のように立ちはだかるのは、熊尾寺山(542.9m)~大野城跡に至る山脈でしょう。あれを越えるのか?いやいや越えるのはもっと右手の低いところでしょう。
 その前に手前の汐見峠で低い丘陵を越え、海南に行きます。
rs-R732057138

10:36、多田の真っ直ぐな道をゆく
rs-R732058039

同じ家ですが、熟れたの木のこテイストがなかなかよろし。この村はちょっと道草すべきでしょうけど、先を急ぎます。
rs-R732058140

10:39、多田 四ツ石地蔵尊
rs-R732059742

 かつて多田にあった三上院千光寺の礎石を集めて地蔵尊を祀ったのが
この四つ石地蔵です。
 このすぐ前を通る熊野古道は、古代・中世に牟婁に湯行幸や熊野三山
参詣の道として開けました。平安時代の末には、後白河上皇らによる熊野
参詣がさかんにおこなわれ、「蟻の熊野詣」と呼ばれる程のにぎわいを見
せました。
 伝説、浄瑠璃で有名な小栗判官と照手姫の話に由来して、別名小栗街
道とも呼ばれます。

昭和五十九年三月
海南市教育委員会

rs-R732059041

 海南に行くには目の前の低い丘陵を越えます。阪和道は切り通しを行きますが、古道は突き当りを右に曲がり、松坂王子を見てから汐見坂を越えます。
rs-R732060743

10:55 松坂王子跡
道端なのでクルマがビュンビュン通ります。写真を撮るのも難儀します。
rs-R732063045

 松坂王子は現在且来八幡神社に合祀されています。亀川という在所にありますが、街道筋からちょっと離れているので行きませんでした。
 松坂王子の案内看板によると、江戸時代以降は和歌山城−紀三井寺−内原−黒江−藤白という熊野街道が整備されたので、祓戸王子以北の王子社は衰退したという。

松坂王子のお地蔵さん
rs-R732062344

11:03、小さな峠を越えていきます。クモ池の堤防横には熊野古道の石畳が残っています。ごく上部しか写真に撮れなかった。
rs-R732063346

_クモ池について興味深い記事がありました。日本書紀には神武軍が先住民の首長の名草戸畔(なぐさとべ)を誅した、ということが書かれています。その場所がここクモ池という伝承があるようです。名草戸畔は要するに神武軍側からみれば土蜘蛛で神武軍に恭順しなかった土豪の蔑称でしょう。その土蜘蛛からクモ池と名付けられたか?由緒正しい地名でしょう。

11:10、峠を越えて少し降ったところに地蔵堂。汐見峠呼び上げ地蔵尊
rs-R732063947
安政2年(1855年)の大地震の大津波の時、人々を峠へ呼び上げて救ったという地蔵さんです。 もとはもっと峠近くにあったが、県道工事の際にここに移されたというので、大地震の際はココでも危ないのだろう。今となっては大変重要な伝承なんでしょう。
rs-R732064248

 案内板によると、その昔、旅人だれもが、旅の途中でこの峠に至って憧れの海を見て感動したので汐見峠と名付けられたとあります。名前は汐見峠ですが、海は見えません。建物がなければ見えるかも知れませんが・・・
rs-R732064649

  さて、松代王子社跡がよく分からずに調査の段階から困っていました。春日神社の途中の山腹にあるというのと、Googlemapにサインがあるので間違い無いだろうと、春日神社の森を目指して途中から曲ったのです。途中にあったのがこの鳥居と祠。台座に「松代王子」とあるので間違いはないでしょうが、参考サイトでみた写真と違う。この疑問は後に明らかになるのですが。
rs-R732067354

松代王子祠
rs-R732067555

松代王子祠の参拝に先立って、春日神社にお参りしました。
rs-R732065551

季節がら、拝殿にはお雛さまが飾られていました。豪華絢爛、そして春到来の気分が盛り上がります。
rs-R732065952

rs-R732066053

rs-R732065450

 帰りしなに、元、王寺社があったとされる辺り(マップのA点付近)を歩いてみましたが、当然ながら何もありません。民家の庭先を通ったような・・・街道に戻ったところ春日神社の標柱とお地蔵さんがありました。ひょっとして、ここが春日神社の(昔の?)正規参道なのか?
rs-R732068056
後で調べてみると、ここを登って行った所に、松代王子社の標石(B地点)があるということでした。
先程ボクが見た松代王子社の祠は最近建てられたものだとか。要するに、
・元の松代王子社跡は別の場所にあって、熊野詣での衰退で廃社となりました。江戸時代にはすでに社は無かったそうです。
・その後、紀州の殿様の命により、寛保年間に石碑が建てられました。これがB地点の標石
・高野、熊野参詣道が世界遺産登録されたのを機に、社が再建されることになり、平成15年に春日神社境内社として、熊野古道を愛する方々の寄付により再び復興されたそうです
以上、下記サイトを参考にさせていただきました(そのまま引用ですが)
http://ameblo.jp/968-910/entry-12060528628.html
下調べ、後調べでいろいろなサイトを参照しますが、通り一遍の記載で訳が分かりません。来歴についてこのサイトのくらいの記述はしてほしいものです。
海南市のサイト(http://www.city.kainan.lg.jp/kanko/midokoro/bunkazai/matsushirooji.html)「日方川にかかる春日橋の手前に松代王子の説明板があり、左手の春日神社への参道を上ると青石に刻まれた「松代王子碑」があります。明治35年にこの地へ移されたもので、元の王子跡は春日山の西の麓にあったといわれています。」とあるだけで、もう少し説明がほしいなあ・・・

 次は菩提房王子ですが、昼前なので大野中信号のコンビニで昼食休憩です(11:45 12:04)。

12:08、英気を養い菩提房王子後へ
rs-R732068357

rs-R732068859

rs-R732068658
もう、ここまでくると貧相です。菩提房王子ならではの役割とか、いつごろ廃されたとか、居間となっては分からないんでしょうねえ。



(続く)