2017年4月13日
紀伊路6日目です。今日は紀伊宮原-糸我峠-湯浅-河瀬-鹿ケ瀬峠-紀伊内原までです。日帰りなので、出発がどうしても9時半になり、峠越2件ですが、日も長いのでなんとかなるでしょう。
結果、なんとかなって6時過ぎに紀伊内原に着きました。当日は良いお天気で、もう散り果てたと思っていたサクラも満開を維持していて、花の紀州路を満喫できました。
前編として、糸我峠を越えて、湯浅も越えて、河瀬・西の馬留王子跡まで。

◆花の久米崎王子跡
紀伊路6日目です。今日は紀伊宮原-糸我峠-湯浅-河瀬-鹿ケ瀬峠-紀伊内原までです。日帰りなので、出発がどうしても9時半になり、峠越2件ですが、日も長いのでなんとかなるでしょう。
結果、なんとかなって6時過ぎに紀伊内原に着きました。当日は良いお天気で、もう散り果てたと思っていたサクラも満開を維持していて、花の紀州路を満喫できました。
前編として、糸我峠を越えて、湯浅も越えて、河瀬・西の馬留王子跡まで。

◆花の久米崎王子跡
■コースタイム
9:25 紀伊宮原
9:39 コンビニ■朝食休憩 9:56
10:06 得生寺・一里塚跡
10:09 糸我稲荷
10:19 ★(44)糸我王子跡 10:22
10:25 分岐道標、糸我王子跡
10:45 糸我峠■休憩 10:58
11:17 ★(45)逆川王子跡、逆川神社 11:20
11:28 方津戸峠
11:45 湯浅
12:02 勝楽寺、紀伊国屋文左衛門碑
12:06 ★(46)久米崎王子跡 12:08
12:30 新柳ヶ瀬橋
12:36 井関渡し(かつての橋)
12:40 広川IC入口コンビニ■昼食休憩 13:03
13:10 ★(47)津兼王子跡(井関王子跡)13:18
13:26 ★(47)井関王子旧地
13:44 丹賀蔵王大権現 14:49
13:51 供養搭道標
13:52 ★(48)河瀬王子跡
14:05 ★(49)馬留王子跡、立場跡、鹿ヶ瀬峠まで2340m 14:08
---------------------
14:13 旧道分岐
14:16 ターン点、鹿ヶ瀬峠まで2030m
14:30 鹿ヶ瀬峠まで1230m
14:43 ゲート
14:55 大峠の地蔵 15:01
15:02 法華壇■昼食休憩 15:29
15:31 鹿ヶ瀬峠・大峠
15:41 馬頭観音
15:43 小峠、石畳道
15:54 熊野古道公園、石畳道■休憩 16:00
16:09 題目板碑
16:14 金魚茶屋
16:22 ★(50)沓掛王子跡 16:24
16:35 爪書き地蔵
16:49 ★(51)馬留王子跡
17:00 放送塔
17:11 ★(52)内ノ畑王子跡
17:36 ★(53)高家王子跡、内原王子神社■休憩 17:55
18:13 紀伊内原
26.8km/8時間49分(山旅ロガー読み)内休憩:1時間45分
■マップ
・必要箇所は手動で拡大してください。
・柳ヶ瀬以南はMapの等高線が標示されません。
・ピンク色の線で山旅ロガーの軌跡を読み込んで標示させました。それに応じて若干のルート修正もしました。
1.糸我峠越え
朝寝坊して朝食抜きで家を出、電車にちょうど間に合いました。6:40発、これに乗らないと明るいうちに終るかどうかでした。そういう訳で、紀伊宮原に降り立ち(9:25)、とりあえずコンビニに向かいます。
9:39、宮原大橋を渡って、コンビニで朝食休憩、行動食調達、その他もろもろで17分。力がみなぎってきた感じがします。
9:57、堤防道に戻って、前回越えてきた拝ノ峠、長峰山脈を振り返る。

この風景が気に入ったので、クスの大木を入れてもう一枚。

10:06、雲雀山得生寺

「中将姫」の話は當麻寺の専売特許かと思っていたら違いました。天平のおり、右大臣藤原豊成の娘として生まれた姫が13才のとき継母によっていじめられ、殺されかけたが、藤原家の従者は殺さず糸我の雲雀山に捨てたという。姫は3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています。当麻の中将姫伝説では、その翌年、豊成が見つけて連れ戻し、大和で1000巻の写経を成すとなっています。その後、二上山の山麓にある当麻寺へ入り尼となり、26歳で長谷観音のお告げにより、「当麻曼荼羅」を織り上げる。さらに、29歳で入滅。生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。
ま、伝説ですが、この糸我に捨てられたのか。感じのよさそうなお寺と見受けましたが、本日は急ぎのためお参りはしませんでした。
すぐ隣には一里塚跡がありました。松のある低いマウンドがそうなのか。明治初年に東塚が取り除かれ、その後、道路拡張により西塚の一部が取り除かれたと書いてありましたが、要は破壊された。

10:10、糸我稲荷神社
本朝最初 稲荷大明神。由緒によれば、安閑天皇の頃、凶作に悩んだ村民が「高山」に登って祈りつづけたら倉稲魂神(うかのみたま神)が降臨、凶作は収まった。翌年、宣化天皇元年には(山中に)「稲葉根社(いなばねのやしろ)」を建てて祀ると害獣も来なくなった。孝徳天皇の頃には麓に稲荷社を建てた。さらに時代は下って、元明天皇の頃、山城の伏見に倉稲魂神が降臨されたので、朝廷が当社に「稲荷大神社」の称号を送った。稲荷は伏見稲荷より、こちらが早いというお話しです。
さらに、地名潭としては、最初の降臨後「熊野のいと高山」がなまって、熊野の糸我」になったとか!ちょっとシンドイ説明のようですが・・・

周辺にはいろんな石碑が集められていますが、文久4年(1864))の道標を写しておきました。
「すぐ熊のみち」

10:19、糸我王子跡のサクラ
一昨日の強風にも関わらず、満開を維持しています。ウチのサクラは半分ほど散りましたが・・・紀州といえども今年のサクラは遅かったのか?

解説板によると糸我王子も数奇な運命を辿っているようです。
1109年:藤原宗忠は、王子名を書いていない。
1200年頃:藤原定家は「いとカ王子」に参る
1210年:藤原頼資の日記に「糸我王子」に参拝
近世:廃絶、紀伊続風土記には「廃糸我王子」とある
一方、江戸時代には、この付近に「水王子社」「上王子社」があり、地元では上王子社を糸我王子社と言っている。
明治時代:良王子は稲荷神社の合祀
平成七年:糸我王子社復活。
よほど新しいのだ。

10:24、糸我王子社旧地
古道を登って行きますと分岐道標がありました。

その対面に「糸我王子跡」
この左手の畑に王子社があった。江戸時代には「上王子社」と呼ばれたが、明治40年に稲荷神社に合祀された、その王子社跡です。

どんどん登って行きます。高精細な石垣。ミカン山にもきっちり石積みが成されています。

10:38、振り返ると糸我、宮原、長峰山脈

ゲンノショウコ

峠近くなると農道は地道になり、四阿から上は昔ながらのジグザグ地道になります。よく残っていると思います。ジグザグ道を上から眺める。

10:45、糸我峠着。これは右手(西)方面。この先に稲荷神社奥宮があるようですが、パスさせていただきます。

左手(東)、農道が続いています。雲雀山まで続いていると思います。

明るい峠です。今まで歩いてきた紀伊路の峠の中でもピカイチではなかろうかと思います。

昔、ここにあったという茶店風景が描かれていました。名産の蜜柑を貯えておき、盛夏の頃旅人に売ったという。旅人がびっくりして味わっている様子が描かれています。耐久高校美術部生徒の作品。
話は全然変わりますが。「回り道」という苗字の人がいるようです。

ゆっくりしたいところですが、13分の休憩で切り上げ。下ります。
南のほうもよく見える。多分、真中に見える谷を遡って行き、遠くに見える山を越えて行くのかと・・・

古道は農道になっていますが快適な下り道です。

2.静かな静かな湯浅を通り抜ける
まず、湯浅より一つ手前、方津戸峠で隔てられた手前の盆地にある吉川の街へ降りて行きます。JRの最寄り駅で言えば、湯浅よりも藤並の方が近いかも。
坂をほとんど降りた頃、逆川神社を探している時に、大きな石が置いてありました。「行者石」の看板はありますが、ハテどんな石なのか?
調べてみると、
行者石
この石は、熊野参詣の盛んな頃、この上に立ち、祓の井戸 (小字七見にあったと伝えら れる)の水で心身を清め、道中の安全と祈願成就を祈ったと伝えられる石です。昭和61年逆川災害復旧工事の際、河川より出されて、この地に移されました 。
http://tokuhituwakayama.cside.com/tm270921/oojisya/yuasa/gyojya.html

11:17、逆川王子跡
逆川王子跡は坂を下り切った右手(西)にありました。藤原定家は「サカサマ王子」と言ったらしい。なんでも、川が付近の川と違い逆に(海と反対に)流れていることから、サカサマ(逆)川と言い、そこから逆川王子と言ったらしい。

逆川神社にお参りしてみる。

祠の背後が荒れています。明治43年に国津神社に合祀されたというので、あまりお参りもされないのか?

方津戸峠に登っていきます。
11:26途中にあった弘法井戸
弘法大師がツエを立ててから水が湧いたという、よくある話ですが、バケツが置いてあったので水は湧いているようでした。

11:28、方津戸峠
峠地蔵はありますが、今風のクルマの峠でゆっくりもできません。クルマは結構通ります。
いの
古道は右手の脇道へ。

ちくちく痛いオニアザミ。アメリカオニアザミかな?

川沿いの道をどんどん進んで、オールド湯浅の街に入ってきました。
11:45、重伝建地区?
多分。重要伝統建築地区かと?略し過ぎてにわかには分かり難い。
宮原から約6.5km、2時間、11時半~12時到着と踏んでいたのですが、まあまあ予定通りに来ています。

湯浅の中心部のようですが、見事な程にだれもいません。時々オバチャンが自転車で通るくらい。

道町の立石道標 「すぐ 熊野道 東 きみゐてら」

東が紀三井寺って?と思っていたら、「東面に、指で北を指した図が彫られている」ということでした。
ちなみに、南面には「いせかうや右」とあるようです。

それにしてもだれも通っていない!シラス定食に心引かれながら、JRを越して行きます。
今回は通り過ぎましたが、半日ほどかけてブラブラしてみたい街でした。ちょっといい感じに熟れている建物を撮っておきましょう。


12:03、勝楽寺のサクラが見事です。

その向かいには楠のモニュメント風剪定!

楠の裏には紀伊国屋文左衛門之碑が隠れていました。

12:06、久米崎王子跡は国道を越えたところにあります。
ここのサクラも見事でした。王子巡りかサクラ巡りか分からない。

案内板によると、1221年(承久三年)承久の乱以後は上皇や女院かの熊野御幸はほとんど行われなくなり、久米崎王子は1236年には跡形もなくなったと。鎌倉幕府や江戸時代の紀州藩主徳川頼宣は社殿を再興しましたが、その都度荒廃し、以後、久米崎王子神社として祀られていたが、明治40年の合祀(顕国神社に)により完璧に跡地だけになったと書いてあります。明治の合祀令は歴史に残る愚行だったのだ。今はサクラに囲まれて平和な「王子跡」ですが、この安泰もいつまで続くのやら?
石碑も撮っておきましょう。

3.広川を遡って河瀬に
久米崎王子跡で作業をしていたおじさんに道を教えてもらったら、橋を渡って国道を行ったらよい、と言っていましたが、それは早いかも知れないが、国道は歩きたくない。
12:10、ここは橋を渡らず広川右岸を行きます。ここが正規の古道です。

12:22、柳瀬あたり
何の変哲もない農村ですが、味わい深い村です。ちょうど学校帰りで、多分新1年生らしい子どもが迎えにきたお母さんに荷物を預けて、行きつ戻りつブラブラ遊びながら帰って行くところでした。まことにのどかな農村の春。

12:30、新柳ヶ瀬橋を渡る

橋を渡ったところにちょっと気になる旅館がありました。旅館というより民宿か木賃宿。食堂もやっているようだったので、寄っていようかとチラと思いましたが・・・
12:31、古道は国道に合流しすぐに脇道に入ります。
この辺りからGoogleMapが手抜きで等高線が標示されません。まっしろな紙に道路の線だけが標示されるという始末。なんのこっちゃ分かりません。

12:36、古道は広川に突き当たる

昔はここで広川を渡っていたようです。ここを渡ってすぐ左の所に「井関王子」があったと書いています。しかし、中世までは広川を渡らず、井関王子の約200m東にあった津兼王子に至っていた。その津兼王子跡には小さな祠があったが、平成に入ってから広川ICの造成により消滅した、と書いてあります。今はその場所に石碑があるだけです。

井関王子と津兼王子の位置関係

12:40、お昼も過ぎたので、コンビニに寄って昼食休憩。冷麺を食べました。
休憩後、津兼王子跡へ。広川ICの中にあるので、グルグル回ってやっと探し当てました。道標はあるんですが・・・
13:10、津兼王子跡

ちょっと目立ちにくい場所です

説明板によると、昔、白原王子というのがあったと書いてあります。拾い読みすると・・・・
1109:藤原宗忠は白原王子に参拝。白原王子は近年にできた
1201:藤原定家は久米崎王子の後、井関王子に来た
1210:藤原頼資日記では久米崎王子の後、白原王子に参拝
江戸時代:紀伊続風土記では、井関王子は村の北入口にあり、地名から津兼王子という
近世初期には熊野街道が西に移ったので、旧井関橋を渡ったてすぐの所に津兼王子ができた。
結局、白原王子、井関王子、津兼王子は時代が違い、場所も移動しただけで同じ王子ということか?
結局は、明治41年に新しい津兼王子も津木八幡宮に合祀され消滅。その跡地があるだけ、と言うことでしょうか。
13:25、さて、もとの広川の対岸に来てみました。

引き返して、古道を進みます。この左手辺りが「井関王子」旧地のはずです。ちょうどコンビニの裏手あたり、自動車整備工場になっています。

さて、気を取り直して河瀬に向かいます。井関の古道筋はなかなか落ち着いた佇まいです。

こんな看板がありました。私企業が水を提供してくださっているそうです。(株)タストさん。

道端にあった江戸時代末期の熊野古道井関村の様子。梶原薫氏による。

13:42、これがタストさん。敬意を表して写しておきましょう。

13:44、丹賀蔵王大権現

稲荷社ですが、ありとあらゆる神様をお祀りしています。よくもこれだけ集めたものだと思う。下のほうに役行者もお祀りされています。立里荒神さんも祀られています。

不動明王に、その横は弘法大師か?

白井原王子(白原王子のことか?)、井関王子、津兼王子も合祀されてるとか。津木八幡宮に合祀されてるのではなかったか?合祀合戦?

もう一度広川を渡ると河瀬です。「かわせ」でなく「ごのせ」。河瀬川のサクラも見事。

13:52、河瀬王子跡
説明板には、江戸時代までは角瀬王子または津の瀬王子であったが、江戸期の村名が河瀬であったので「ごのせ王子」と呼ばれるようになった、と書いてあります。また川瀬王子とも言われたようです。ここも明治41年に津木八幡宮に合祀され。消滅しました。消滅はしましたが、ちょっとした高みに巨大な岩が残っていて、いかにも王子跡らしい風情です。

石積みの上の台地には祠があったのでしょう。その上は巨大な磐座です。

井関から河瀬にかけては宿場だったらしく、あちこちに「○○屋跡」という看板が建っていました。
河瀬集落はすぐに途切れて、農道が谷を登って行きます。もうシャガが咲き始めています。

14:05、10分ほどで山間の道になり馬留王子跡です。鹿ヶ瀬峠を越えた所にも馬留王子があり、ここは東の馬留王子とも言われました。津木八幡神社に合祀されています。

対面、山側には馬留王子社の石碑もありました。

すぐ近くには「立場」の看板と、「徳本名号碑道標」、「鹿ケ瀬峠まで2340m」の案内板が建っていました。

ここから先、しばらくは舗装道路ですが、途中でターンして鹿ヶ瀬峠に登って行きます。
(続く)
9:25 紀伊宮原
9:39 コンビニ■朝食休憩 9:56
10:06 得生寺・一里塚跡
10:09 糸我稲荷
10:19 ★(44)糸我王子跡 10:22
10:25 分岐道標、糸我王子跡
10:45 糸我峠■休憩 10:58
11:17 ★(45)逆川王子跡、逆川神社 11:20
11:28 方津戸峠
11:45 湯浅
12:02 勝楽寺、紀伊国屋文左衛門碑
12:06 ★(46)久米崎王子跡 12:08
12:30 新柳ヶ瀬橋
12:36 井関渡し(かつての橋)
12:40 広川IC入口コンビニ■昼食休憩 13:03
13:10 ★(47)津兼王子跡(井関王子跡)13:18
13:26 ★(47)井関王子旧地
13:44 丹賀蔵王大権現 14:49
13:51 供養搭道標
13:52 ★(48)河瀬王子跡
14:05 ★(49)馬留王子跡、立場跡、鹿ヶ瀬峠まで2340m 14:08
---------------------
14:13 旧道分岐
14:16 ターン点、鹿ヶ瀬峠まで2030m
14:30 鹿ヶ瀬峠まで1230m
14:43 ゲート
14:55 大峠の地蔵 15:01
15:02 法華壇■昼食休憩 15:29
15:31 鹿ヶ瀬峠・大峠
15:41 馬頭観音
15:43 小峠、石畳道
15:54 熊野古道公園、石畳道■休憩 16:00
16:09 題目板碑
16:14 金魚茶屋
16:22 ★(50)沓掛王子跡 16:24
16:35 爪書き地蔵
16:49 ★(51)馬留王子跡
17:00 放送塔
17:11 ★(52)内ノ畑王子跡
17:36 ★(53)高家王子跡、内原王子神社■休憩 17:55
18:13 紀伊内原
26.8km/8時間49分(山旅ロガー読み)内休憩:1時間45分
■マップ
・必要箇所は手動で拡大してください。
・柳ヶ瀬以南はMapの等高線が標示されません。
・ピンク色の線で山旅ロガーの軌跡を読み込んで標示させました。それに応じて若干のルート修正もしました。
1.糸我峠越え
朝寝坊して朝食抜きで家を出、電車にちょうど間に合いました。6:40発、これに乗らないと明るいうちに終るかどうかでした。そういう訳で、紀伊宮原に降り立ち(9:25)、とりあえずコンビニに向かいます。
9:39、宮原大橋を渡って、コンビニで朝食休憩、行動食調達、その他もろもろで17分。力がみなぎってきた感じがします。
9:57、堤防道に戻って、前回越えてきた拝ノ峠、長峰山脈を振り返る。

この風景が気に入ったので、クスの大木を入れてもう一枚。

10:06、雲雀山得生寺

「中将姫」の話は當麻寺の専売特許かと思っていたら違いました。天平のおり、右大臣藤原豊成の娘として生まれた姫が13才のとき継母によっていじめられ、殺されかけたが、藤原家の従者は殺さず糸我の雲雀山に捨てたという。姫は3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています。当麻の中将姫伝説では、その翌年、豊成が見つけて連れ戻し、大和で1000巻の写経を成すとなっています。その後、二上山の山麓にある当麻寺へ入り尼となり、26歳で長谷観音のお告げにより、「当麻曼荼羅」を織り上げる。さらに、29歳で入滅。生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。
ま、伝説ですが、この糸我に捨てられたのか。感じのよさそうなお寺と見受けましたが、本日は急ぎのためお参りはしませんでした。
すぐ隣には一里塚跡がありました。松のある低いマウンドがそうなのか。明治初年に東塚が取り除かれ、その後、道路拡張により西塚の一部が取り除かれたと書いてありましたが、要は破壊された。

10:10、糸我稲荷神社
本朝最初 稲荷大明神。由緒によれば、安閑天皇の頃、凶作に悩んだ村民が「高山」に登って祈りつづけたら倉稲魂神(うかのみたま神)が降臨、凶作は収まった。翌年、宣化天皇元年には(山中に)「稲葉根社(いなばねのやしろ)」を建てて祀ると害獣も来なくなった。孝徳天皇の頃には麓に稲荷社を建てた。さらに時代は下って、元明天皇の頃、山城の伏見に倉稲魂神が降臨されたので、朝廷が当社に「稲荷大神社」の称号を送った。稲荷は伏見稲荷より、こちらが早いというお話しです。
さらに、地名潭としては、最初の降臨後「熊野のいと高山」がなまって、熊野の糸我」になったとか!ちょっとシンドイ説明のようですが・・・

周辺にはいろんな石碑が集められていますが、文久4年(1864))の道標を写しておきました。
「すぐ熊のみち」

10:19、糸我王子跡のサクラ
一昨日の強風にも関わらず、満開を維持しています。ウチのサクラは半分ほど散りましたが・・・紀州といえども今年のサクラは遅かったのか?

解説板によると糸我王子も数奇な運命を辿っているようです。
1109年:藤原宗忠は、王子名を書いていない。
1200年頃:藤原定家は「いとカ王子」に参る
1210年:藤原頼資の日記に「糸我王子」に参拝
近世:廃絶、紀伊続風土記には「廃糸我王子」とある
一方、江戸時代には、この付近に「水王子社」「上王子社」があり、地元では上王子社を糸我王子社と言っている。
明治時代:良王子は稲荷神社の合祀
平成七年:糸我王子社復活。
よほど新しいのだ。

10:24、糸我王子社旧地
古道を登って行きますと分岐道標がありました。

その対面に「糸我王子跡」
この左手の畑に王子社があった。江戸時代には「上王子社」と呼ばれたが、明治40年に稲荷神社に合祀された、その王子社跡です。

どんどん登って行きます。高精細な石垣。ミカン山にもきっちり石積みが成されています。

10:38、振り返ると糸我、宮原、長峰山脈

ゲンノショウコ

峠近くなると農道は地道になり、四阿から上は昔ながらのジグザグ地道になります。よく残っていると思います。ジグザグ道を上から眺める。

10:45、糸我峠着。これは右手(西)方面。この先に稲荷神社奥宮があるようですが、パスさせていただきます。

左手(東)、農道が続いています。雲雀山まで続いていると思います。

明るい峠です。今まで歩いてきた紀伊路の峠の中でもピカイチではなかろうかと思います。

昔、ここにあったという茶店風景が描かれていました。名産の蜜柑を貯えておき、盛夏の頃旅人に売ったという。旅人がびっくりして味わっている様子が描かれています。耐久高校美術部生徒の作品。
話は全然変わりますが。「回り道」という苗字の人がいるようです。

ゆっくりしたいところですが、13分の休憩で切り上げ。下ります。
南のほうもよく見える。多分、真中に見える谷を遡って行き、遠くに見える山を越えて行くのかと・・・

古道は農道になっていますが快適な下り道です。

2.静かな静かな湯浅を通り抜ける
まず、湯浅より一つ手前、方津戸峠で隔てられた手前の盆地にある吉川の街へ降りて行きます。JRの最寄り駅で言えば、湯浅よりも藤並の方が近いかも。
坂をほとんど降りた頃、逆川神社を探している時に、大きな石が置いてありました。「行者石」の看板はありますが、ハテどんな石なのか?
調べてみると、
行者石
この石は、熊野参詣の盛んな頃、この上に立ち、祓の井戸 (小字七見にあったと伝えら れる)の水で心身を清め、道中の安全と祈願成就を祈ったと伝えられる石です。昭和61年逆川災害復旧工事の際、河川より出されて、この地に移されました 。
吉川老人会・湯浅町
と書いた看板があったらしいhttp://tokuhituwakayama.cside.com/tm270921/oojisya/yuasa/gyojya.html

11:17、逆川王子跡
逆川王子跡は坂を下り切った右手(西)にありました。藤原定家は「サカサマ王子」と言ったらしい。なんでも、川が付近の川と違い逆に(海と反対に)流れていることから、サカサマ(逆)川と言い、そこから逆川王子と言ったらしい。

逆川神社にお参りしてみる。

祠の背後が荒れています。明治43年に国津神社に合祀されたというので、あまりお参りもされないのか?

方津戸峠に登っていきます。
11:26途中にあった弘法井戸
弘法大師がツエを立ててから水が湧いたという、よくある話ですが、バケツが置いてあったので水は湧いているようでした。

11:28、方津戸峠
峠地蔵はありますが、今風のクルマの峠でゆっくりもできません。クルマは結構通ります。

古道は右手の脇道へ。

ちくちく痛いオニアザミ。アメリカオニアザミかな?

川沿いの道をどんどん進んで、オールド湯浅の街に入ってきました。
11:45、重伝建地区?
多分。重要伝統建築地区かと?略し過ぎてにわかには分かり難い。
宮原から約6.5km、2時間、11時半~12時到着と踏んでいたのですが、まあまあ予定通りに来ています。

湯浅の中心部のようですが、見事な程にだれもいません。時々オバチャンが自転車で通るくらい。

道町の立石道標 「すぐ 熊野道 東 きみゐてら」

東が紀三井寺って?と思っていたら、「東面に、指で北を指した図が彫られている」ということでした。
ちなみに、南面には「いせかうや右」とあるようです。

それにしてもだれも通っていない!シラス定食に心引かれながら、JRを越して行きます。
今回は通り過ぎましたが、半日ほどかけてブラブラしてみたい街でした。ちょっといい感じに熟れている建物を撮っておきましょう。


12:03、勝楽寺のサクラが見事です。

その向かいには楠のモニュメント風剪定!

楠の裏には紀伊国屋文左衛門之碑が隠れていました。

12:06、久米崎王子跡は国道を越えたところにあります。
ここのサクラも見事でした。王子巡りかサクラ巡りか分からない。

案内板によると、1221年(承久三年)承久の乱以後は上皇や女院かの熊野御幸はほとんど行われなくなり、久米崎王子は1236年には跡形もなくなったと。鎌倉幕府や江戸時代の紀州藩主徳川頼宣は社殿を再興しましたが、その都度荒廃し、以後、久米崎王子神社として祀られていたが、明治40年の合祀(顕国神社に)により完璧に跡地だけになったと書いてあります。明治の合祀令は歴史に残る愚行だったのだ。今はサクラに囲まれて平和な「王子跡」ですが、この安泰もいつまで続くのやら?
石碑も撮っておきましょう。

3.広川を遡って河瀬に
久米崎王子跡で作業をしていたおじさんに道を教えてもらったら、橋を渡って国道を行ったらよい、と言っていましたが、それは早いかも知れないが、国道は歩きたくない。
12:10、ここは橋を渡らず広川右岸を行きます。ここが正規の古道です。

12:22、柳瀬あたり
何の変哲もない農村ですが、味わい深い村です。ちょうど学校帰りで、多分新1年生らしい子どもが迎えにきたお母さんに荷物を預けて、行きつ戻りつブラブラ遊びながら帰って行くところでした。まことにのどかな農村の春。

12:30、新柳ヶ瀬橋を渡る

橋を渡ったところにちょっと気になる旅館がありました。旅館というより民宿か木賃宿。食堂もやっているようだったので、寄っていようかとチラと思いましたが・・・
12:31、古道は国道に合流しすぐに脇道に入ります。
この辺りからGoogleMapが手抜きで等高線が標示されません。まっしろな紙に道路の線だけが標示されるという始末。なんのこっちゃ分かりません。

12:36、古道は広川に突き当たる

昔はここで広川を渡っていたようです。ここを渡ってすぐ左の所に「井関王子」があったと書いています。しかし、中世までは広川を渡らず、井関王子の約200m東にあった津兼王子に至っていた。その津兼王子跡には小さな祠があったが、平成に入ってから広川ICの造成により消滅した、と書いてあります。今はその場所に石碑があるだけです。

井関王子と津兼王子の位置関係

12:40、お昼も過ぎたので、コンビニに寄って昼食休憩。冷麺を食べました。
休憩後、津兼王子跡へ。広川ICの中にあるので、グルグル回ってやっと探し当てました。道標はあるんですが・・・
13:10、津兼王子跡

ちょっと目立ちにくい場所です

説明板によると、昔、白原王子というのがあったと書いてあります。拾い読みすると・・・・
1109:藤原宗忠は白原王子に参拝。白原王子は近年にできた
1201:藤原定家は久米崎王子の後、井関王子に来た
1210:藤原頼資日記では久米崎王子の後、白原王子に参拝
江戸時代:紀伊続風土記では、井関王子は村の北入口にあり、地名から津兼王子という
近世初期には熊野街道が西に移ったので、旧井関橋を渡ったてすぐの所に津兼王子ができた。
結局、白原王子、井関王子、津兼王子は時代が違い、場所も移動しただけで同じ王子ということか?
結局は、明治41年に新しい津兼王子も津木八幡宮に合祀され消滅。その跡地があるだけ、と言うことでしょうか。
13:25、さて、もとの広川の対岸に来てみました。

引き返して、古道を進みます。この左手辺りが「井関王子」旧地のはずです。ちょうどコンビニの裏手あたり、自動車整備工場になっています。

さて、気を取り直して河瀬に向かいます。井関の古道筋はなかなか落ち着いた佇まいです。

こんな看板がありました。私企業が水を提供してくださっているそうです。(株)タストさん。

道端にあった江戸時代末期の熊野古道井関村の様子。梶原薫氏による。

13:42、これがタストさん。敬意を表して写しておきましょう。

13:44、丹賀蔵王大権現

稲荷社ですが、ありとあらゆる神様をお祀りしています。よくもこれだけ集めたものだと思う。下のほうに役行者もお祀りされています。立里荒神さんも祀られています。

不動明王に、その横は弘法大師か?

白井原王子(白原王子のことか?)、井関王子、津兼王子も合祀されてるとか。津木八幡宮に合祀されてるのではなかったか?合祀合戦?

もう一度広川を渡ると河瀬です。「かわせ」でなく「ごのせ」。河瀬川のサクラも見事。

13:52、河瀬王子跡
説明板には、江戸時代までは角瀬王子または津の瀬王子であったが、江戸期の村名が河瀬であったので「ごのせ王子」と呼ばれるようになった、と書いてあります。また川瀬王子とも言われたようです。ここも明治41年に津木八幡宮に合祀され。消滅しました。消滅はしましたが、ちょっとした高みに巨大な岩が残っていて、いかにも王子跡らしい風情です。

石積みの上の台地には祠があったのでしょう。その上は巨大な磐座です。

井関から河瀬にかけては宿場だったらしく、あちこちに「○○屋跡」という看板が建っていました。
河瀬集落はすぐに途切れて、農道が谷を登って行きます。もうシャガが咲き始めています。

14:05、10分ほどで山間の道になり馬留王子跡です。鹿ヶ瀬峠を越えた所にも馬留王子があり、ここは東の馬留王子とも言われました。津木八幡神社に合祀されています。

対面、山側には馬留王子社の石碑もありました。

すぐ近くには「立場」の看板と、「徳本名号碑道標」、「鹿ケ瀬峠まで2340m」の案内板が建っていました。

ここから先、しばらくは舗装道路ですが、途中でターンして鹿ヶ瀬峠に登って行きます。
(続く)
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