2018/1/1
お正月なので交野市の神社をひと回りしました。ただし、磐船神社は行けてません。昨年もひと回りしましたが、河内森から郡津まで電車に乗ったからねえ、今年は歩いていきます。

◆機物神社鳥居から交野山
お正月なので交野市の神社をひと回りしました。ただし、磐船神社は行けてません。昨年もひと回りしましたが、河内森から郡津まで電車に乗ったからねえ、今年は歩いていきます。

◆機物神社鳥居から交野山
■コースタイム
12:02 星田妙見宮
12:38 星田神社
12;48 善林寺■時間待ち休憩 12:56
13:01 再び星田神社
13:30 私市・若宮神社
13:55 私市・天田神社
13:59 森・川東神社
14:19 寺・住吉神社
14:58 倉治公園■休憩 15:03
15:06 神宮寺・糸吉神社
15:13 倉治・三宝荒神宮遥拝所
15:19 源氏の滝
15:25 高天原本宮奥宮神社
15:35 倉治・機物神社
15:46 倉治■コンビニ休憩 16:00
16:18 郡津・郡津神社
16:34 私部・住吉神社
17:22 みたび星田神社
17:30 妙見宮境内
19km/5時間46分(内、休憩27分)
■マップ
手動で拡大してください。
2018/4/15:歩いた軌跡が神社の位置とずれているのを発見。編集モードでは正常だが、ビューモードではずれる。
GoogleMapもだんだん信頼できなくなりますなあ・・・
■星田妙見宮
12:02、まずは妙見さんから

由緒書きによると、「祭神:天之御中主大神は、仏教では北辰妙見大菩薩と、神道・陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神と呼ぶ」とあり、古くから神仏が混淆した星辰信仰の霊地である。しかし、境内を見る限り、星辰信仰が最表に出てきて、天御中主神は隠れてしまった感がする。


それもそのはずで、古事記においては、アメノミナカヌシとは、冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出でた造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)の中心となる神であるとされる。言うならば、誰がこの世を作ったんや?」と問われて、やむなく創りだしたような神様。なんとも説明がしにくかったに違いない。
それで、鎌倉以降、特に江戸時代になってようやく、記紀神話の再解釈や神道思想の高揚とともに、この神を天地創造の主宰神・世界を創造し支配する最高神とする思想が生まれ、神仏習合の進展ともあいまって妙見菩薩や鎮宅霊符神と習合していったといわれる。
戸原さん:http://www.y-tohara.com/myouken-1.html
この神は開闢の冒頭に登場するもただちに身を隠したため何らの事績もないと言われるが、今で言うビッグバンの混沌の後、天地を固め創りだしたというのが最も大きな事績なので、お役目は十分果たしたと考えよう。
宮司さんにしてみれば、これでも説明がしにくいのだろう。もっと身近な弘法大師の修行や星の落下を持ってきて、最近ではスイフト・タットル彗星のカケラが落ちてきたという話まである。
それはともかく、奥へ入ると、最近出来た化粧ブロックの参道。どなたかが(現地に表示あり)灯籠とともに寄進されたようだ。老人車やベビーカーのママにとっては確かに歩きやすい。以前は地道だったが、キレイに掃除がしてあり悪くはなかったけど・・・
提灯はえらく数が少なくなっていた。ボクも寄進はしたのだけれど、名前はなかった。有効期間があるのか?

ともかく拝殿に直行。 お参りする人も多く、拝殿前ではゆっくりできない。
鎮宅霊符社の前からご神体・影向石を拝んでおく。ここへ来たならば磐座はみておかないとね。

磐座は拝殿右にもある。合計3個あるらしいのだが、あと1個は見たことがない。山の裏手から行くわけにもいかないし。

このご神体をみていると、星田妙見宮は本来、古来の磐座信仰の聖地と思う。星辰信仰もよいけれど。もっと磐座に心を寄せていくスピリットにも焦点を当てて欲しいのだが。
星田妙見宮の参考サイト:http://murata35.chicappa.jp/meisho/myoken/index.htm
■星田神社
12:38、星田神社まで下ってくると・・・・あらら!エライ行列や。数分考えたが、これではいくら時間があってもラチが空きそうもないので、他の用事をすませてもう一度来てみる。

行列は境内向かいのだんじり小屋の前まで来ていた。

1時ころにまた戻ってきたけれど、行列は更に伸びていて、お参りする意欲も薄れてきたので夕方に再訪することにした。
■若宮神社
13:30、私市・若宮神社参道

鳥居。おばちゃんがなかなかどいてくれないので、そのまま撮った。この神社も散歩の途中でよくお参りする。今は時間も時間なので子供はいないが、土日などは近所の子どもたちが集まってきていろんな遊びをしている。公園ではないが、子どもたちが集まる神社というのはいいねえ。

お正月らしく、そこそこの人出だ。
お神酒をいただこうとしていたら、急に風が吹いて、脇にあった飾り?が飛ばされてしまった。そのせいでお神酒は頂けず・・・

ボクがこの神社を気に入っているのは、由緒書きに「今は祭神は住吉四神となっているが、それは間違い。肩野物部市の総社である磐船宮の天の川文化圏と住吉信仰を混同したことによる」と書いてあることいだ。由緒書きに祭神は本当は違うと書いてある神社など見たことがなかった。よほどニギハヤヒを誇りに思っているのだろう。
なお、若宮神社という名は、は江戸時代に磐船神社で宮座の揉め事があり、それぞれの地区へ磐船明神の分霊を持ち帰って祀ったが、私市にはすでに天田神社があったので、若宮神社としたものらしい。
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/photos/11kisaichi/imgp2390.html
若宮神社の横の道端にあるお地蔵さん。謂れは分からないが、散歩の途中いつも気になる。

13:44、私市山の根の棚田定点観測

ここからは六甲山が遠望できる

13:45、百重が原橋をわたって、天田一条定点観測

天田の宮から西に降る道のあたりか、交野条里制の一条にあたる。ここはお気に入りの場所だ。
北には愛宕山も見えるし・・・

うまい具合にトーマス号がやってきた。

■天田神社
13:55、私市・天田神社

天田神社は獅子窟寺の北の谷から流れ来る川の扇状地の首のところにあり、川はこの付近から天井川の小久保川となるようである。小久保川の水を鎮め、交野条里制一条の田んぼを潤す水を司る、とても重要な神社であるのだろう。
由緒書きには、ご祭神は住吉四神となっているが、本来はこの土地の産土神あるいは交野物部氏の祖神(ニギハヤヒ)を祀っていたのだろう。由緒書きには平安時代、住吉信仰が流行するに至って、磐船の神も海に関係することから、祭神も住吉四神に変わったと説明してある。しかし、この交野は、もっと昔、敏達天皇の皇后である御食炊屋姫(みけかしきやひめ、後の推古天皇)に献上され私部(きさいちべ)となった土地で、その後物部守屋が敗れて、物部氏自体が没落していく時代だったので、祭神をニギハヤヒにしておくのはまずかったのだろう。忖度だと思うのだが、どうだろうか?
■川東神社
13:59、森・川東神社。いつも通り過ぎるばかりなので、ちゃんとお参りしておいた。たしかに小久保川の東にある。天田神社の川をわたってすぐそばなので、どういう神社なのかよくわからない。

■住吉神社
14:19、寺・住吉神社

誰もいない。この裏手からかいがけ道が始まるのだが・・・

拝殿の裏手に回って本殿を望む。誰もいないが、きれいに掃除はしてある。寺の方々がきちんとお参りされているようだった。

寺を抜けて神宮寺に向かう。寺の路傍にあるお地蔵さん

寺は昔は「てるは村」で、山麓でなくもっと下の平地にあったようだが、洪水か何かでこちらに移ってきたようだ。
寺から見た龍王山

寺の古い村を抜けて交野支援学校の近くまできた。道脇には京の山石仏(14:27)。
交野歴史ウォークの報告によると、右後ろの半分欠けた石仏は寺のかさんど池(かさま池?)からでた阿弥陀像という。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanesekibutu/index.htm

神宮寺からみる交野山観音岩

14:50、神宮寺の集落外れの道端にある、お地蔵さん?道祖神らしい。
ここから東の路地に入って、山の根の道を行く。

■糸吉稲荷神社
14:58、倉治公園。このちょうど東の山裾に糸吉稲荷神社がある。公園にはトイレ\があるが、行ってみたら鍵がかかっていて、なんとお正月はやすみだと!?正月休みのある公衆トイレなんぞ、あまり知らんなあ。看板によると夜間も鍵をかけるみたいだ。ま、世の中には変な奴が多いからなあ。
とりあえず神社に急ぐ。鳥居の扁額には糸吉稲荷大神、幟には糸吉大明神とある。

この糸吉大明神というのがよくわからない。この神社は西にある機物神社と交野山の観音岩を結ぶ線上にあり(ちょっとズレがあるが)、交野山から西に降りる尾根の先端にある。いかにも機物神社からご神体である観音岩に登る前衛のような感じである。それと糸つながりで、どうしても機物神社との関係の深さを考えてしまう。
糸つながりといえば、交野山の山麓は、古代の機織業を主とした渡来人の居住地が南から北へと続いている。
はたやまー寺
はたものー倉治
はただー津田(清水谷の口)
である。この3機織業集落が、それぞれ山麓扇状地の上に繁栄して、その集落の附近に横穴式古墳群を築造していた。はたもの集落では少し北にある、現関西電力枚方変電所敷地内の横穴式古墳群である。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti03/index.htm
ここは、大昔は、はたもの集団の聖地だったのだろうか?稲荷ということから、秦氏との関係も考えられるが、「はたもの」と秦氏の関係もわからない。
わからないものはわからないので、いつも写真を撮っているだけだ。
なお、ここから少し南の尾根先に鳥居があり、少し上には猿田彦神を始めとする神々が祀ってある。この神々との関係もわからない。

■三宝荒神宮遥拝所
15:13、源氏の滝に行ってみる。滝道に降りたところに、交野山の山頂近くに祀られている三方荒神宮の遥拝所がある。今回は遥拝で勘弁してもらおう。


上の写真の看板にあるように、源氏の滝は修験の北の峯の宿のひとつ「甲の尾」なので、初詣には違和感があるがお参りしておこう。ここにお参りしたら、磐船神社。獅子窟寺、竜王山も別け隔てなくお参りするのが必要になってくるけど・・・
夜泣き石の背後にはおびただしい石仏が安置されている。2013年頃にも訪れたことがあるが、その時は多くのい石仏が倒されていた。そばにいたおじさんは、「若い奴らがこかしていくのでかなわんのや」と言っていたが、ちゃんと整備されたんや。


これは石仏群の前にある祠に安置されている石仏。特別な謂れでもあるんだろうか?

参道の舗装もなかなか凝っている

巨石の上でお不動さんが睨んでいらっしゃる。

15:19、源氏の滝
滝修行場である。右手の岸壁が崩落していたが、セメントか何かで崩落止めがされていた。

下流には高天原本宮奥宮神社があるのだが、ちょっと得体が知れないのでパス。以前調べたことはあるが、本宮が泉尾って?
■機物神社
15:35、ま西に降っていくと機物神社。またもや裏口から失礼します。

さすがに大勢の人がお参りしている。
ここでお神酒をいただく。お神酒って美味しいものなんやな、と改めて思う。

機物神社というと、今は七夕の神社として有名で、天棚機比売大神(アマノタナバタヒメ)・栲機千々比売大神(タクハタチヂヒメ)という、機織りの女神2柱が主祭神である。
創建年代は、社伝では、応仁の乱(1467~77)収束直前の文明8年(1476)に、後土御門天皇が天下平安を祈願するため神祇管領の卜部兼倶を遣わしたことをもって創始としているが、神社自体はそれ以前からあっただろう。
古墳時代に養蚕・機織りの技術をもって渡来し、寺村・倉治・津田辺りの山麓一帯に村落を営んだ機織り集団が、その首長または祖先の「漢人庄員」を祀ったのが始まりだという。後になって、「交野忌寸(イミキ)」が出る。
平安時代になると、桓武天皇をはじめとする多くの大宮人が交野の野に遊猟するようになって、七夕伝承の織女星・機織り姫へと替えられたと思われる。なにしろ、天の川が流れているし、そこに星も降ってきたという話もある土地だからね。
http://www.y-tohara.com/katano-1.html
さて、社頭の鳥居越しに交野山を見てみる。

拡大

機物神社の大元はこの観音岩をご神体として祀ったことだろう。鳥居越しに正面に見える。冬至の日には機物神社の境内から交野山に重ね合わされた日の出が見られるそうだ。条件がよければ、冬至前後の数日間は交野山山頂に日輪が光り輝く直前に交野山の裏側に白道(しろみち)が走るという。
機物神社サイト:http://hatamono.web.fc2.com
その光景を邪魔しているのが送電鉄塔。なんでこんな設計にしたのかね?ほんの10mでもずらせて建ててくれれば、「おー、ちゃんと気配りしてくれている」と好評価となるのに。このままではよほど無知だったか、気配りのカケラもなかったと言うしかない。
今日は昼飯もまだなので、倉治のコンビニで遅い昼飯休憩。時計を見たらもう4時だ。のんびりしていると日が暮れる。途中寄りたいところもあったが、最短距離をまっすぐ郡津神社に向かう。
■郡津神社
16:16、途中、幾野を通る。道端にあったお地蔵さん。もうすぐ近くに来ている。

16:18、郡津神社

案内書きによれば、当社は、元、一の宮と呼ばれ、白鳳時代(696~710)に交野郡衛により創建され、同時期に建立の神宮寺・長宝寺ととも栄えたが、鎌倉時代初期に長宝寺が焼失し廃寺となった後は、この宮だけが氏神信仰の中心として栄えた、という。
二の宮は東高野街道西側にあって住吉明神を祀っていた。三の宮は丸山古墳の東にあってアマテラスを祀っていた。明治初年の神社の統廃合により、二の宮と三の宮を合祀し、郡津神社となった。
ご祭神は、合祀本殿:素箋雄命(スサノヲ、牛頭天王)・住吉大神・天照大神。その他に、末社:金刀比羅大神・天神地祇・稲荷大神・貴船大神が祀られている。
そういえば、今年は戌年だったなあ。もう4時を回った、先を急ごう。

■住吉神社
16:34、私部に戻ってきて、住吉神社。

唖然呆然!すごい人が並んでいて、拝殿前は入場制限をしていた。この時間でこれほど多いとは!並んで待っていたら日が暮れるので、お参りはパス。

■星田神社
17:22、星田に戻ってきた。予想通り夕暮れ。正月になって、この時間でもまだ明るさはある。
星田神社もご祭神は住吉四神。しかし、摂社に交野社があって、そこはニギハヤヒが祭神である。本来のご祭神だろう。
詳しくは、戸原さん:http://www.y-tohara.com/katano-2.html

お参りをして、お神酒を頂いた。機物神社とはまた違った味で美味しかった。帰る頃には夕闇。

かくして、交野市の主だった神社にはお参り(私部・住吉神社は寄っただけ)できた。
分かっていながらお参りできなかった神社。磐船神社、高岡神社。
あとで気がついたがお参りできなかった神社。傍示・菅原神社(ここを忘れたらあかんやろ)、龍王山・八大竜王社。これで全部かな?気がついた以上は、来年はお参りしないと・・・・
(とりあえず終わり)
12:02 星田妙見宮
12:38 星田神社
12;48 善林寺■時間待ち休憩 12:56
13:01 再び星田神社
13:30 私市・若宮神社
13:55 私市・天田神社
13:59 森・川東神社
14:19 寺・住吉神社
14:58 倉治公園■休憩 15:03
15:06 神宮寺・糸吉神社
15:13 倉治・三宝荒神宮遥拝所
15:19 源氏の滝
15:25 高天原本宮奥宮神社
15:35 倉治・機物神社
15:46 倉治■コンビニ休憩 16:00
16:18 郡津・郡津神社
16:34 私部・住吉神社
17:22 みたび星田神社
17:30 妙見宮境内
19km/5時間46分(内、休憩27分)
■マップ
手動で拡大してください。
2018/4/15:歩いた軌跡が神社の位置とずれているのを発見。編集モードでは正常だが、ビューモードではずれる。
GoogleMapもだんだん信頼できなくなりますなあ・・・
■星田妙見宮
12:02、まずは妙見さんから

由緒書きによると、「祭神:天之御中主大神は、仏教では北辰妙見大菩薩と、神道・陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神と呼ぶ」とあり、古くから神仏が混淆した星辰信仰の霊地である。しかし、境内を見る限り、星辰信仰が最表に出てきて、天御中主神は隠れてしまった感がする。


それもそのはずで、古事記においては、アメノミナカヌシとは、冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出でた造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)の中心となる神であるとされる。言うならば、誰がこの世を作ったんや?」と問われて、やむなく創りだしたような神様。なんとも説明がしにくかったに違いない。
それで、鎌倉以降、特に江戸時代になってようやく、記紀神話の再解釈や神道思想の高揚とともに、この神を天地創造の主宰神・世界を創造し支配する最高神とする思想が生まれ、神仏習合の進展ともあいまって妙見菩薩や鎮宅霊符神と習合していったといわれる。
戸原さん:http://www.y-tohara.com/myouken-1.html
この神は開闢の冒頭に登場するもただちに身を隠したため何らの事績もないと言われるが、今で言うビッグバンの混沌の後、天地を固め創りだしたというのが最も大きな事績なので、お役目は十分果たしたと考えよう。
宮司さんにしてみれば、これでも説明がしにくいのだろう。もっと身近な弘法大師の修行や星の落下を持ってきて、最近ではスイフト・タットル彗星のカケラが落ちてきたという話まである。
それはともかく、奥へ入ると、最近出来た化粧ブロックの参道。どなたかが(現地に表示あり)灯籠とともに寄進されたようだ。老人車やベビーカーのママにとっては確かに歩きやすい。以前は地道だったが、キレイに掃除がしてあり悪くはなかったけど・・・
提灯はえらく数が少なくなっていた。ボクも寄進はしたのだけれど、名前はなかった。有効期間があるのか?

ともかく拝殿に直行。 お参りする人も多く、拝殿前ではゆっくりできない。
鎮宅霊符社の前からご神体・影向石を拝んでおく。ここへ来たならば磐座はみておかないとね。

磐座は拝殿右にもある。合計3個あるらしいのだが、あと1個は見たことがない。山の裏手から行くわけにもいかないし。

このご神体をみていると、星田妙見宮は本来、古来の磐座信仰の聖地と思う。星辰信仰もよいけれど。もっと磐座に心を寄せていくスピリットにも焦点を当てて欲しいのだが。
星田妙見宮の参考サイト:http://murata35.chicappa.jp/meisho/myoken/index.htm
■星田神社
12:38、星田神社まで下ってくると・・・・あらら!エライ行列や。数分考えたが、これではいくら時間があってもラチが空きそうもないので、他の用事をすませてもう一度来てみる。

行列は境内向かいのだんじり小屋の前まで来ていた。

1時ころにまた戻ってきたけれど、行列は更に伸びていて、お参りする意欲も薄れてきたので夕方に再訪することにした。
■若宮神社
13:30、私市・若宮神社参道

鳥居。おばちゃんがなかなかどいてくれないので、そのまま撮った。この神社も散歩の途中でよくお参りする。今は時間も時間なので子供はいないが、土日などは近所の子どもたちが集まってきていろんな遊びをしている。公園ではないが、子どもたちが集まる神社というのはいいねえ。

お正月らしく、そこそこの人出だ。
お神酒をいただこうとしていたら、急に風が吹いて、脇にあった飾り?が飛ばされてしまった。そのせいでお神酒は頂けず・・・

ボクがこの神社を気に入っているのは、由緒書きに「今は祭神は住吉四神となっているが、それは間違い。肩野物部市の総社である磐船宮の天の川文化圏と住吉信仰を混同したことによる」と書いてあることいだ。由緒書きに祭神は本当は違うと書いてある神社など見たことがなかった。よほどニギハヤヒを誇りに思っているのだろう。
なお、若宮神社という名は、は江戸時代に磐船神社で宮座の揉め事があり、それぞれの地区へ磐船明神の分霊を持ち帰って祀ったが、私市にはすでに天田神社があったので、若宮神社としたものらしい。
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/photos/11kisaichi/imgp2390.html
若宮神社の横の道端にあるお地蔵さん。謂れは分からないが、散歩の途中いつも気になる。

13:44、私市山の根の棚田定点観測

ここからは六甲山が遠望できる

13:45、百重が原橋をわたって、天田一条定点観測

天田の宮から西に降る道のあたりか、交野条里制の一条にあたる。ここはお気に入りの場所だ。
北には愛宕山も見えるし・・・

うまい具合にトーマス号がやってきた。

■天田神社
13:55、私市・天田神社

天田神社は獅子窟寺の北の谷から流れ来る川の扇状地の首のところにあり、川はこの付近から天井川の小久保川となるようである。小久保川の水を鎮め、交野条里制一条の田んぼを潤す水を司る、とても重要な神社であるのだろう。
由緒書きには、ご祭神は住吉四神となっているが、本来はこの土地の産土神あるいは交野物部氏の祖神(ニギハヤヒ)を祀っていたのだろう。由緒書きには平安時代、住吉信仰が流行するに至って、磐船の神も海に関係することから、祭神も住吉四神に変わったと説明してある。しかし、この交野は、もっと昔、敏達天皇の皇后である御食炊屋姫(みけかしきやひめ、後の推古天皇)に献上され私部(きさいちべ)となった土地で、その後物部守屋が敗れて、物部氏自体が没落していく時代だったので、祭神をニギハヤヒにしておくのはまずかったのだろう。忖度だと思うのだが、どうだろうか?
■川東神社
13:59、森・川東神社。いつも通り過ぎるばかりなので、ちゃんとお参りしておいた。たしかに小久保川の東にある。天田神社の川をわたってすぐそばなので、どういう神社なのかよくわからない。

■住吉神社
14:19、寺・住吉神社

誰もいない。この裏手からかいがけ道が始まるのだが・・・

拝殿の裏手に回って本殿を望む。誰もいないが、きれいに掃除はしてある。寺の方々がきちんとお参りされているようだった。

寺を抜けて神宮寺に向かう。寺の路傍にあるお地蔵さん

寺は昔は「てるは村」で、山麓でなくもっと下の平地にあったようだが、洪水か何かでこちらに移ってきたようだ。
寺から見た龍王山

寺の古い村を抜けて交野支援学校の近くまできた。道脇には京の山石仏(14:27)。
交野歴史ウォークの報告によると、右後ろの半分欠けた石仏は寺のかさんど池(かさま池?)からでた阿弥陀像という。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanesekibutu/index.htm

神宮寺からみる交野山観音岩

14:50、神宮寺の集落外れの道端にある、お地蔵さん?道祖神らしい。
ここから東の路地に入って、山の根の道を行く。

■糸吉稲荷神社
14:58、倉治公園。このちょうど東の山裾に糸吉稲荷神社がある。公園にはトイレ\があるが、行ってみたら鍵がかかっていて、なんとお正月はやすみだと!?正月休みのある公衆トイレなんぞ、あまり知らんなあ。看板によると夜間も鍵をかけるみたいだ。ま、世の中には変な奴が多いからなあ。
とりあえず神社に急ぐ。鳥居の扁額には糸吉稲荷大神、幟には糸吉大明神とある。

この糸吉大明神というのがよくわからない。この神社は西にある機物神社と交野山の観音岩を結ぶ線上にあり(ちょっとズレがあるが)、交野山から西に降りる尾根の先端にある。いかにも機物神社からご神体である観音岩に登る前衛のような感じである。それと糸つながりで、どうしても機物神社との関係の深さを考えてしまう。
糸つながりといえば、交野山の山麓は、古代の機織業を主とした渡来人の居住地が南から北へと続いている。
はたやまー寺
はたものー倉治
はただー津田(清水谷の口)
である。この3機織業集落が、それぞれ山麓扇状地の上に繁栄して、その集落の附近に横穴式古墳群を築造していた。はたもの集落では少し北にある、現関西電力枚方変電所敷地内の横穴式古墳群である。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/yamanemiti03/index.htm
ここは、大昔は、はたもの集団の聖地だったのだろうか?稲荷ということから、秦氏との関係も考えられるが、「はたもの」と秦氏の関係もわからない。
わからないものはわからないので、いつも写真を撮っているだけだ。
なお、ここから少し南の尾根先に鳥居があり、少し上には猿田彦神を始めとする神々が祀ってある。この神々との関係もわからない。

■三宝荒神宮遥拝所
15:13、源氏の滝に行ってみる。滝道に降りたところに、交野山の山頂近くに祀られている三方荒神宮の遥拝所がある。今回は遥拝で勘弁してもらおう。


上の写真の看板にあるように、源氏の滝は修験の北の峯の宿のひとつ「甲の尾」なので、初詣には違和感があるがお参りしておこう。ここにお参りしたら、磐船神社。獅子窟寺、竜王山も別け隔てなくお参りするのが必要になってくるけど・・・
夜泣き石の背後にはおびただしい石仏が安置されている。2013年頃にも訪れたことがあるが、その時は多くのい石仏が倒されていた。そばにいたおじさんは、「若い奴らがこかしていくのでかなわんのや」と言っていたが、ちゃんと整備されたんや。


これは石仏群の前にある祠に安置されている石仏。特別な謂れでもあるんだろうか?

参道の舗装もなかなか凝っている

巨石の上でお不動さんが睨んでいらっしゃる。

15:19、源氏の滝
滝修行場である。右手の岸壁が崩落していたが、セメントか何かで崩落止めがされていた。

下流には高天原本宮奥宮神社があるのだが、ちょっと得体が知れないのでパス。以前調べたことはあるが、本宮が泉尾って?
■機物神社
15:35、ま西に降っていくと機物神社。またもや裏口から失礼します。

さすがに大勢の人がお参りしている。
ここでお神酒をいただく。お神酒って美味しいものなんやな、と改めて思う。

機物神社というと、今は七夕の神社として有名で、天棚機比売大神(アマノタナバタヒメ)・栲機千々比売大神(タクハタチヂヒメ)という、機織りの女神2柱が主祭神である。
創建年代は、社伝では、応仁の乱(1467~77)収束直前の文明8年(1476)に、後土御門天皇が天下平安を祈願するため神祇管領の卜部兼倶を遣わしたことをもって創始としているが、神社自体はそれ以前からあっただろう。
古墳時代に養蚕・機織りの技術をもって渡来し、寺村・倉治・津田辺りの山麓一帯に村落を営んだ機織り集団が、その首長または祖先の「漢人庄員」を祀ったのが始まりだという。後になって、「交野忌寸(イミキ)」が出る。
平安時代になると、桓武天皇をはじめとする多くの大宮人が交野の野に遊猟するようになって、七夕伝承の織女星・機織り姫へと替えられたと思われる。なにしろ、天の川が流れているし、そこに星も降ってきたという話もある土地だからね。
http://www.y-tohara.com/katano-1.html
さて、社頭の鳥居越しに交野山を見てみる。

拡大

機物神社の大元はこの観音岩をご神体として祀ったことだろう。鳥居越しに正面に見える。冬至の日には機物神社の境内から交野山に重ね合わされた日の出が見られるそうだ。条件がよければ、冬至前後の数日間は交野山山頂に日輪が光り輝く直前に交野山の裏側に白道(しろみち)が走るという。
機物神社サイト:http://hatamono.web.fc2.com
その光景を邪魔しているのが送電鉄塔。なんでこんな設計にしたのかね?ほんの10mでもずらせて建ててくれれば、「おー、ちゃんと気配りしてくれている」と好評価となるのに。このままではよほど無知だったか、気配りのカケラもなかったと言うしかない。
今日は昼飯もまだなので、倉治のコンビニで遅い昼飯休憩。時計を見たらもう4時だ。のんびりしていると日が暮れる。途中寄りたいところもあったが、最短距離をまっすぐ郡津神社に向かう。
■郡津神社
16:16、途中、幾野を通る。道端にあったお地蔵さん。もうすぐ近くに来ている。

16:18、郡津神社

案内書きによれば、当社は、元、一の宮と呼ばれ、白鳳時代(696~710)に交野郡衛により創建され、同時期に建立の神宮寺・長宝寺ととも栄えたが、鎌倉時代初期に長宝寺が焼失し廃寺となった後は、この宮だけが氏神信仰の中心として栄えた、という。
二の宮は東高野街道西側にあって住吉明神を祀っていた。三の宮は丸山古墳の東にあってアマテラスを祀っていた。明治初年の神社の統廃合により、二の宮と三の宮を合祀し、郡津神社となった。
ご祭神は、合祀本殿:素箋雄命(スサノヲ、牛頭天王)・住吉大神・天照大神。その他に、末社:金刀比羅大神・天神地祇・稲荷大神・貴船大神が祀られている。
そういえば、今年は戌年だったなあ。もう4時を回った、先を急ごう。

■住吉神社
16:34、私部に戻ってきて、住吉神社。

唖然呆然!すごい人が並んでいて、拝殿前は入場制限をしていた。この時間でこれほど多いとは!並んで待っていたら日が暮れるので、お参りはパス。

■星田神社
17:22、星田に戻ってきた。予想通り夕暮れ。正月になって、この時間でもまだ明るさはある。
星田神社もご祭神は住吉四神。しかし、摂社に交野社があって、そこはニギハヤヒが祭神である。本来のご祭神だろう。
詳しくは、戸原さん:http://www.y-tohara.com/katano-2.html

お参りをして、お神酒を頂いた。機物神社とはまた違った味で美味しかった。帰る頃には夕闇。

かくして、交野市の主だった神社にはお参り(私部・住吉神社は寄っただけ)できた。
分かっていながらお参りできなかった神社。磐船神社、高岡神社。
あとで気がついたがお参りできなかった神社。傍示・菅原神社(ここを忘れたらあかんやろ)、龍王山・八大竜王社。これで全部かな?気がついた以上は、来年はお参りしないと・・・・
(とりあえず終わり)
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