2018/7/31
旧加佐郡大江町です。
朝6時過ぎから屋外作業で、早くも8時過ぎにギブアップです。暑すぎ!ガソリン補給がてらに丹後路を散歩します(バイクで)。
■マップ
カメラ:リコーCX-3
■機材
カメラ:リコーCX-3
スマホなし
1.河守の水害
一昨日の台風は全く問題はなかったっようですが、河守地区始め、由良川下流域では7月初めの豪雨で結構な被害を被ったようです。綾部でも至る所に土砂崩れあり、犠牲者もでました。
河守地区は水害常襲地帯でしたが、由良川のスーパー堤防完成で(一部か?)安全になったと思いきや、支川からの水門を閉めてしまって、また水害。そんなアホな!
ここは蓼原で、支川が由良川に合流する場所ですが、左手土手上を走る国道まで水が来ていたようでした。正面に見える2階建てはお気に入りのまんじゅう屋さんで、以前の水害(多分2004年)で1Fの機械室が水没したので、まんじゅう製造の機械を2Fに持って行って再建したという。さすがです。幟がはためいていたのでもう営業はしているようでした。
そばにあった、水害記念パネル。一番上は昭和28年水害のレベル。とんでもないです!
2枚めのレベルは平成16年、2004年水害です。もう少し下流でバスが浸かって乗客が屋根に登って一晩凌いだというあの水害。まわりの草の汚れ具合からすると、その少し下まで水に浸かった気配です。当地区の住民にしてみれば、アホみたいな被害だったと思います。何のための堤防か?
気を取り直して、上流へ。公庄の橋が工事中だったので、さらに上流へ。
日藤のトンネル。北丹鉄道の遺構です。2つあります。
結局、上天津まで行って、筈巻橋を渡りました。この橋も、由良川増水時は冠水前提。これも沈下橋というのか?!
2.広畑と奈良原
ずいぶん遠回りして尾藤まで帰ってきました。
この道標はもうありませんが、ここを右に。さらに右股の谷に入ると、広畑、さらに奥に行くと奈良原です。
途中、コーンやロープで通せんぼがあったので土砂崩れか何かがあるもようです。一番奥まで行ってみます。
案の定、南山・森野に抜ける峠手前で通過不能。
引き返し、途中見つけた地蔵さんにお参りしながら・・・・
奈良原の地蔵堂
扉を開けさせていただきます。
周囲に石碑多数
文久二年の廿三夜 百なんとか?碑と光明真言拾なんとか?
廿三夜とは、講を作って、旧暦23日の夜,すなわち二十三夜に宿に集まって飲食をともにしながら月の出を待つことらしい。これは月待行事の一つで、江戸時代から昭和の初期にかけて、日本各地で盛んに行われたという。
光明真言は、
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや うん
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや うん
真言宗の法事等では必ず唱えられる。これはボクも唱えられますよ。
見たところ、もう数戸しか住まわれていない奈良原と広畑ですが、活発な信仰がある立派な村だったのでしょう。
さらに下流に行きますと、地蔵さんの祠
観音さん?阿弥陀さん?
涼しくなったら歩いて来てみましょう。
3.奥山の谷に入ってみる
最初の道標から、左股の谷に入れば奥山です。
奥山の谷は標高は低いですが、谷が深く(狭隘で)、いかにも深山の渓谷の感じがして、渓流魚がいる感じがしていました。アブラハヤなどがおったと思います。
奥山の谷に入ってすぐ、道標があった。
右 にしさか ありじ
左 びとう こうもり
こんなのがよく残っていたと思います。
地図を見ると、行き止まりのような奥山ですが、こんな道標があるということは、それなりの人通りがあったと思われます。ボクは子供の頃、このすぐ北にある尾藤峠(または赤目坂峠)から旧道を通って、谷を渡るところまで、アケビ取りに来たことがありますが、この道標は知らなかった。
調べてみると、京都府中丹振興局発行の「中丹の古道」で宗峠というのが取り上げられていて、小畑から宗峠を越えて、河守や有路への街道がよく使われていたそうです。ということは、ここで分岐して、尾藤峠を越えて、さらに北へ山越えしていた。その有路への峠道は、小学校に上がる前にオバアに連れられて通った道のようでした。その峠道をgooglemapに描いておきました。秋になったら歩いてみなければ・・
谷を渡る道を探しに行きましたが、廃道になっているようです。もっとも、その上は廃土置き場になっていて、通れるはずもありませんけど。
その宗峠への道を探しに行きました。
ここが宗峠への分岐のようです。右は金谷峠で古道が整備され、峠の交流会も行われていると、中丹の古道には書いてありました。
秋になったら宗峠や金谷峠も含めて歩いてみましょう。さらに、有路へ通じる峠も探索してみたい。楽しみができました。
(とりあえず終わり)
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