2019/10/10
2019/05/24

 ゆうパックを出しに行ったついでに我が中学校校区の神社めぐりです。随分前のデータも合わせてアップします。

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阿須々岐神社後背の金ヵ峰


1.須波伎部神社

 まずは、須波伎の須波伎部神社。保育園を過ぎて、太ヶ鼻の手前を東に入ります。この道は初めてや。
鳥居
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清々しい参道
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お!振り返ると、あれは宮ヶ獄ではないか。えらく高いように見えますが、たった332mです。左の尾根は綾部市境界尾根で小畑の空山につながります。
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社殿は一段と高いところにあります。今居る台地にも摂社と思われる二社がありますが、祭神は分かりません。
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本殿は覆屋格子に隠されてよく見えません。秋からの丹波霧か時雨のせいか、柱や板は地衣類がこびりついて古色蒼然としています。当地の神社の社殿はだいたいこんな様子ですね。
本殿は、元和九年(1623)に再建されたという。
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式内社 須波伎部神社
 祭神 大日霊貴尊(天照大神)
 平城天皇の大同二年(八〇七)須波伎山に建立されたと伝えている。三代実録貞観十一年(八六九)十二月八日の条に「授丹波国正六位上物部簀掃神従五位下」とあり、位階を有する丹波における古大社である。恐らく古代須波伎物部氏の氏神であろう。境内の薬師堂は神宮寺であった中谷山天慈院のもので、堂内には室町時代中期を下らないと思われる薬師如来坐像が安置してある。
                       綾部市観光協会
                       綾部の文化財を守る会
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 案内によると、三代実録の記述から昔は「物部簀掃神」と称されていたらしい。簀掃(スハキ)とは、古代に掃部と称され宮内省管轄の掃部寮に隷属した農民で、物部氏の部民として、清掃具や設営具などを納めていた者達と考えられているらしい。
https://genbu.net/data/tanba/suwakibe_title.htm
 祭神は大日孁貴命を祀るとありますが、本来は掃部の祖神を祀ったものでしょう。須波伎自治会のサイト(https://www.monobe-chiku.info/30413.html)にょると、大日孁貴命の他にスサノオノミコトが祀られているとありますが、よく分かりません。
 「境内の薬師堂」というのがよく分かりませんが、本殿脇にある小社かなあ?神社と思うけど。RIMG0646
社殿下の広場には社務所兼集会所のような建物があり、このなかに仏像が安置されていますが、ガラスに阻まれて写真がうまく撮れません。
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■参考サイト
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/175.html
http://tangonotimei.com/ikrg/monobe.html

 どうもよく分からないので帰ります。参道を降りながらふと頭を上げると・・・あれは大江山か。
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篠田に向かいますが、振り返ると須波伎山
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■道標
現地では読めたが写真をみると読めません。確か、右 向田 左 物部 だったような。
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 篠田まで行って、八重坂峠の入り口を確認し、さらに志賀郷の竹松うどん屋さんも確認して八丁に向かいます。ここで過去に遡って、阿須須伎神社にお参りします。

2.阿須須伎神社

 あすすきじんじゃの社号は「阿須須伎神社」「阿須々伎神社」「阿須須岐神社」「阿須々岐神社」などといろいろ表記があります。
案内看板は「阿須々伎神社」
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鳥居では「阿須須岐神社」
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まあ、どれでもいいこととします。
 旧社地である「金ヵ峰」についても、
1)京都府サイト「平成24年度 文化財修理(阿須々岐神社・大川神社)」では当神社の西方にあるとしている。http://www.pref.kyoto.jp/furusatokifu/133520386810.html
2)http://engishiki.org/tanba/bun/tab380603-01.html では、旧鎮座地は、金峰山(344m)の金河内と坊口との境の、南面した丘陵地とある。344m峰をマップに示しておいた。(
厳密に金河内と坊口との境ではなく、境付近でありmすが・・・)
3)社頭の案内板では、当社背後の山。
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ちょっといい加減過ぎますが、位置関係から納得できるのは、当社背後のP353峰、それならここ。

 要するに、阿須々岐神社は、創祀年代は不詳ながら(西方か背後かにある)金ヵ峰に鎮座していたものを和銅6(713)年に現社地に遷座したということでしょう。
 当社は吾雀宮(あすすぎのみや)又は金宮大明神(かねのみや)とも呼ばれ、延喜式に記載される式内社の「阿須々岐神社」に比定されています。 しかし、明治十二年、篠田神社と式内社争いが起こり式内社指定を取り消されたらしい。
 吾雀(あすすぎ)宮について、そもそも志賀郷、志賀の元の名前はの吾雀郷(和名抄)と言ったので、古くは郷名と神社名が一致していたのでしょう。
拝殿
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本殿を横から
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これは何?
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 そうそうご祭神を忘れていました。天御中主神・神皇産霊神・天皇産霊神。しかし、吾雀郷の総社としても祭神は別でしょう。
 社頭案内板にあったように、10月17日の大祭には、氏子中より選ばれた射手による金的を撃つ弓の神事が行われます。その他、太刀振り、風流踊り、狂言などの郷土芸能が奉納されます。
阿須須伎神社大弓神事
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参考サイト:http://tangonotimei.com/ikrg/kanegoti.html
 そういえば、ボクはこの神社ではないですが、昔、近くの氏神の神社で、似たような行事に参加したことがります。男の子供が何歳か(5歳か?)になった時、神事の弓引きに参加できるのです。親も立ち会うと言うか、介添で一緒に弓を引くのですが、親のほうが熱が入って・・・近距離ですが、小さな的に当たるもんではありませんでした。
 さらに、節分の日に神田から出る茗荷の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ)の吉・凶を占い、またその年の作物の出来も占う行事があります。
参考サイト:http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/asusuki/myoga.htm

 さて、境内社が多数あります。社殿右手には、大川神社と金刀比羅宮。その奥に稲荷社。
摂社大川神社は阿須々岐神社とともに京都府登録文化財 に登録されているとのこと。
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 大川神社と言えば加佐郡名神大社でしょう。大川神社は主神は保食神ですが、相殿に 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)とあらゆるものを司るようになっています。山越えしてかなりの影響を受けたものと思われます。旧社地が「金ヵ峰」、さらに「金宮大明神(かねのみや)」とも呼ばれていたことを考えると、どうしても金山彦神の影響があったのではとさえ思います。

 社殿左手には、愛宕神社、八坂神社、八幡宮が並んで祀られた祠があります。その左に、もう一つの八幡宮がある。
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もう一社の八幡宮
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これは稲荷社のはずですが、どこやったかな?多分、社殿右の奥の方にあった気がします。
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以上、参考サイト:https://genbu.net/data/tanba/asusuki_title.htm
 これで阿須々岐神社参拝は終わりですが、背後にあるという金ヵ峰には登ってみたいと思っています。
 さて、西方に向かいます。今は広い舗装道路ができていますが、一回目は旧道を走りました。舗装はされていますが、なかなか歩いても気持ちよさそうな道でした。今度は歩いてみよう。

3.藤波神社

 藤波神社は2回参拝しました。何故か、字は違うけれども阪神・藤浪にカツを入れるため。
駐車場から鳥居
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新しい藤棚があります。
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古い藤ですがオリジナルかどうかは不明
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拝殿と蔵
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藤!
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本殿
ご祭神は火雷神。志賀の七不思議の話ばかりで、ちゃんと祭神の説明がないのが難でありますが、伊邪那美命が死んだ時、黄泉の国で体にウジがたかり、胸から生まれたのが火雷神ですが、なぜここの祭神が火雷神なのかというのが分かりません。
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 お参りはしたけど、今季、藤浪はあかなんだなあ。来年こそ!トレード噂もチラホラあるけどねえ。白藤伝説、白鷺伝説のように、どこかへ飛んでいってしまうのか?

藤の側にある小社は何かな?
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4.丹後へ

 ふと思って西方から峠越えで丹後にいくことにしました。何故か?

■有路へ抜ける峠
 名前は知りませんが、大昔に来たときには、朴の木や栃の木も見えて、美しい峠だったのを覚えていますが、今はどこにでもあるありふれた林道の峠になっていました。
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スギ植林多数
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旧道らしい道もちょっと残っていました。
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古い峠道らしく、石仏
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■才の神の藤
 ここにも金丸親王(あちらは、丹波道主命の丹波征討伝説で、蟻が群がっているのを見て人里が近いと考えたところに才の神があった)の丹波征討伝説があります。以前レポートしたとおりです。
そうそう、西方の道は「白藤ロード」とかなんとかの名前が着いていました。こちらも含めて「藤ロード」としたらどうかなと思う。
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西方からここまでの参考サイト:http://tangonotimei.com/ikrg/nisikata.html

■最後に
蓼原まで行って、買ってきました。大好物なもんで・・・
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 さらに、本当に最後に、尾藤回りで帰り、途中気になっていた新道を通って観音寺の鬼ヶ城麓まで行って、土砂崩れで普通になっていた奈良原への峠を越して尾藤峠越えで帰ってきました。

(おわり)