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エミシの国の女神 菊池展明著 風琳堂 2012/12/1発行
お気に入り度 ★★★★(読みにくいので−1)
2024/7/23購入 ¥1041(一部ポイント)
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 夏休みの自由研究と言うか、なんというか、酷暑で山歩もままならない状況なので、ちょっとは山に関係のある読書としゃれ込みました。が、これが難関でもう8月も終わりです。
 読んだ本は、「エミシの国の女神」で早池峰からみの本です。序章は「大昔に女神あり」となっていて、「遠野物語」では早池峰山には瀬織津姫が祀られているという。山好きにとっては、これは読んでみなければ。

●「エミシの国の女神」の概要目次rr
「遠野物語」は読んだはずですが、多分、学生時代ですでに忘却の彼方!瀬織津姫といえばその筋のyoutubeで「消された女神」なんていうことで、ちょっと話題になってきているので、その意味でも興味があります。

 まずは、遠野三山があり、それは早池峰山、石上山(石神山)、六角牛山であり、それぞれに、瀬織津姫、速佐須良姫、速秋津姫が祀られていると。これは遠野の伊豆神社の伝承にある、西から来た拓殖婦人おないさん一行か祀られたという話がベースになっています。

●遠野三山map(地理院地図に書き込み)遠野三山地名
  はて、祓戸の神は四柱の神で、気吹戸主神はどこ行った?(男神のようでした)というのは置いといて・・・その内、速佐須良姫はイナカの近所・南有路の十倉神社に祀られていたので祓戸の神は知ってました。https://walkin3.blog.jp/archives/30266134.html。
■メモ
 祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐命が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
    瀬織津比売神(せおりつひめ):もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
    速開都比売神(はやあきつひめ):河口や海の底で待ち構えていて諸々の禍事・罪・穢れを飲み込む
    気吹戸主神(いぶきどぬし): 速開都比売神がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
    速佐須良比売神(はやさすらひめ): 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う


 瀬織津姫に焦点をあてましょう。まずは、瀬織津姫の特徴から見ていきましょう。

1.『記紀』には見られず
 瀬織津姫だけでなく、(速開都比売神を除いて)これらの神の名は『記紀』には出てこない。
 延喜式には出てきます。「さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬にいます」川瀬の女神です。大祓詞にも出てきて、その役割を祓いの神に限定されています(祓戸大神)。大祓詞とは7,8世紀に中臣氏によって創作され、中臣祓とも言われます。また、坂上田村麻呂によるエミシ討伐の返り血の汚れを祓うために祓戸大神を勧請したという話もあります。
 瀬織津姫は全国の神社でも表に出るのは僅かで、岩手県、早池峰や遠野地方では特に多くなっています。この地方での瀬織津姫関連場所(神社など)をマップに入れました。

●遠野地方の瀬織津姫関連場所
 
参考までに巻末にあった分布図からリストを作成しました。岩手だけでなく、鳥取、静岡、岡山に顕著なのは興味あります。
瀬織津姫リスト
■隠された神
 瀬織津姫が顕在化した神社は先の表通りですが、多くの神社では、瀬織津姫は切り捨てられている(別の神にすり替えられている)ようです。例えば・・・
 ・天照大神の荒御魂(内宮の別宮荒祭宮に祀られる/度会氏の創作)
 ・禍津日神(悪神/本居宣長)・・・祟り神の要素
 ・早池峰でも最初は早池峰大神で、瀬織津姫の名は明治の遠野物語の民話採集や編集時でも知られていなかった。
 神格は水神、滝神、雨乞いので、(各地の)滝神社などに祀られ、不動明王と習合していた。また祓戸神なのでこの表現だけで「瀬織津姫」の名が表に出てないのも多数あるようです。

2.瀬織津姫神は熊野からやってきたらしい
 読んでいくにつれ、早池峰大神=瀬織津姫は西国、特に熊野から持ち込まれたらしいとありました。早池峰山の開山者四角藤蔵は(静岡の)伊豆権現の霊感を受けて信仰をはじめ、伊豆の修験(699年に伊豆に配流された役行者も修行したという)者が遠野まで来てご神体を祀ったことで、伊豆大権現と称された(現在の遠野伊豆神社由緒から)。また、遠野ー薬師岳ー早池峰山の参詣道途中にある「又一滝」命名に関して、遍路者六部(熊野修験者)が「那智滝は海内一だが、薬師岳南の滝も又、海内一」と嘆賞したので、「又一滝」と呼ばれるようになったという話もあります。

●薬師岳の写真を上げておきましょう:yamap公式より https://yamap.com/mountains/2783
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 役行者は生駒ー葛城ー吉野ー大峰から熊野への修験ルートを開き、その信仰が熊野修験者の活動の広がりによって、遠野まで広がってきたと言えます。役行者の生存期間は634-701年で大化改新〜壬申の乱という古代激動期を生きています。この時期はあとあと重要になってきますので、予告しておきます。
 熊野三山の那智滝はそのものが神であるといいます。那智滝(一の滝)の行事に、下記の重要なものがあります。
 (春)那智滝に瀬織津姫を祭り滝上の中津瀬にて禊ぎ祓いを行う
 (秋)三膳を滝川に流す(夏に水に不自由しなかったことを弁財天また水神にお礼する)
「那智滝に瀬織津姫を祭り・・・」というより、那智滝そのものが瀬織津姫ということですね。
●那智滝:yamap公式より
https://cdn.yamap.co.jp/public/image2.yamap.co.jp/production/ef366fcb-3ea0-41e4-8229-59bb9141b402?t=crop&w=336&h=336&f=webp&q=60
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 瀬織津姫の伝搬はどうやら伊勢神宮の成立に関係しているらしい。熊野三山の那智滝はそのものが神である。一方では、那智三所は伊勢神宮と同体という概念が先にあるらしい。また「内宮荒祭の神=アマテラスの荒御魂=瀬織津姫である」という「大江匡房の文書」があることから、瀬織津姫が内宮の成立と深い関係があるのが分かってきます。

■閑話休題 記紀以前の(山の)信仰は太陽神であった
 太陽神が重要なキーワードになってくるので、事前にウンチクを。
 熊野のごとびき岩の神倉神社(熊野速玉大社の元宮)では、縄文末期〜弥生初期に海の民が渡来し、巨大な磐座を目当てに漁労に従事していました。太陽の光を受けて輝くことから、太陽神(原緒の熊野大神)としてお祀りし、守護神としていた(らしい)。それが、ヤマトの影響下になると、天照大神(第一宮)、高倉下(第二宮)として祀られることになる。
    http://www.kumano-sanzan.jp/hayatama/jinja.html
    https://nankikumanogeo.jp/geosite/kamikurasan-no-gotobikiiwa/
    https://www.shinguu.jp/spots/detail/A0002

   太古の政治/信仰体制は、祭祀女王(ヒメ)と政務男王(ヒコ)で、ヒメが祭祀を司り神の託宣を受けるものであり、それに基づき、ヒコが政治を行うというものでした。ヒコは太陽神でその神妻となるのがヒメ。女性の太陽神があったかどうかよく分かりません。
 この制度(文化)がベースになっているかと思いますが、神社もヒメ神/ヒコ神がペアとして祀られているケースもたくさんあります。ボクの経験した神社では、針畑越をしたときの若狭姫神社/若狭彦神社。このケースは別棟の神社になっていましたが・・・
 瀬織津姫に関して言えば、瀬織津姫は、本来は天照大神(ここは太陽神のアマテル神)と対になる神ということでした。例えば、花巻市東和町の大澤瀧神社は本殿に瀬織津姫を祀り、対面に天照大神の巨岩が祀られている。さらに、鈴鹿・石大神(天照大神を祀る)の巨岩の峰に対面する祓塚に瀬織津姫が祀られている(椿大神社の神歌による)。ここは敏達天皇も参拝し、祓塚と呼んだ(名付けた)。(椿大神社二千年史による)  
●石大神 観光三重サイトより拝借:https://www.kankomie.or.jp/spot/4899
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 次に、舞台は伊勢になりますが、古の朝熊神社。ここもヒメ神/ヒコ神がペアとなっています。
祭神は・・・
・大歳神:原初の太陽神
・苔虫神(こけむしのかみ?)
・朝熊水神(あさまのみずのかみ):天知迦流美豆姫=天を領する生命力に満ちた太陽の女の意という説がある。ここは元、朝熊山山上にあった朝熊神社の里宮であり、地主神の朝熊水神と海の遥か彼方から来た太陽神が出会った場所として、一対の神として祀られています。山頂の金剛證寺本尊の虚空蔵菩薩の裏には天照大神像があり、それは男性であるとされています(金剛證寺談)。
●朝熊山からの眺望:yamap公式サイトより https://yamap.com/model-courses/41546
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3.瀬織津姫の舞台は伊勢へ
 早池峰の神のつもりが、伊勢まで来てしまいました。伊勢は瀬織津姫の「扱われ方」「行く末」にとって重要な土地なので避けて通る訳には行きません。時代は7世紀末、激動の時代です。そのため年表で予習しながら進めます。

671年:天智天皇と対立していた大海人皇子(後の天武天皇)は出家し、夫人である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)を伴い吉野宮に向かいました。
672年:大海人皇子、壬申の乱開戦にあたって(朝明川のほとりで天照大神を望拝)戦勝を祈念した。
 本書では、具体的には伊勢神宮の方角を拝んだことを意味すると考えられている。しかし、この時期、(今のような)伊勢神宮はまだないという文献があった(林一馬;伊勢神宮成立史考)。現地のどこかの社地に斎宮の社を作ったのが最初で、それは673〜674年あたりか?当時、大海人皇子が天照大神を太陽神たるアマテルとかテンショウと認識していたのか、アマテラスを着想していたかは不明。
672年:壬申の乱勃発、大海人皇子が勝利
673年:飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇。
●伊勢の計画map
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■アマテラスの構想・誕生    
673年:天武天皇による斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)となる。
674年:大来皇女、斎王として伊勢国に下向した(指名約1年後)
675年:広瀬大社祭祀(大忌神/豊受神を伊勢から遷す)大忌神を広瀬の河曲に祭る!!
681年:『日本書紀』と『古事記』の編纂命ず
685年:天武天皇の発意で伊勢神宮の式年遷宮を定める。
686年:天武崩御
690年:持統即位、第1回遷宮
692年:持統、伊勢行幸
 このとき伊勢神宮成立を確認したか?また、祭神変更の周辺各地への波及効果/不具合を確認したか?書紀には詳細記載なく、あえて伏せているのか?
 天武即位後、この間に、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという。これについてはタカミムスヒが旧来の皇祖神で、天武天皇がアマテラスに取り替えたという説もある。女神アマテラスの着想はもっと前かもしれないが、不明。要は、天照(アマテル)大神は男神から女神に変更され、アマテラス大神を皇祖神としたたことです。このあたりは筑紫さんの「アマテラスの誕生」にかかれているので・・・しかし、読んだけれども結論しか覚えてなくて詳細は忘却の彼方!一応、再確認はできました。
698年:内宮(皇大神宮)設立(多気大神宮を度会郡に遷した:筑紫氏アマテラスの誕生)
伊勢神宮を五十鈴川沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、それ以前は宮川上流の滝原宮にあったと推定されている。
写真 筑紫さん アマテラスの誕生
amateras
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2007/08/post-9be0.html

 この間、瀬織津姫がどんな扱いを受けたかが、ヤヤコシくて文章では困難なので概念図を作りました。要は、それまで地主神である太陽神・天照大神(アマテル神、テンショウ神)と対になっていたのを引き剥がされ、名前も訳のわからない名前に代えられた。これは、三輪神道によって作成されたと思われる文書(ホツマツタエ)の記載を見てもそう考えられる。

●外宮構造の変化
外宮構造
●内宮構造の変化
内宮構造
外宮、内宮の中での位置関係がわかりにくいので全体マップを上げておきます。伊勢神宮公式サイトからの拝借です。
●外宮
外宮右北
●内宮
内宮下北
■中臣氏の関与は?
 あと、どうしても触れておかなければならないことは、大祓詞(内の中臣祓)のこと。これは中臣氏の創作になるものです。これによって、瀬織津姫はその役割を祓いの神に限定された。それはいつ誰が作ったか・・・?
669年:天智天皇八年(669年)天皇勅願により、中臣金(連)が中臣祓創った(佐久奈度神社の由緒にある)
・・・ということは中臣金連が勝手にしたのでなく、朝廷の意思も入っているということ。もっと言えば「伊勢の一地方神であった天照大神(アマテル、男性太陽神)と瀬織津姫のペアは具合悪い、なんとなれば【天照大神】は同じ字でアマテラス皇祖神として使うものだから、瀬織津姫は外せ」とかナントカカントカ(表現は推定です)・・・という合意があったのでは?勅願ですからね。しかし、このとき、もう「アマテラス」着想があったかどうかは分かりません。
 この時期(それ以前も)中臣氏は神祇担当として、天皇にピッタリくっついています。
  天智:中臣金(中臣祓創作)、中臣大嶋(神宮祭主)
  天武:中臣大嶋(書紀編纂の中心)、朝廷で初めて中臣祓が実践
  持統:中臣大嶋(神祇伯)、中臣意美麿呂
  文武:中臣意美麿呂(中臣祓の増補改定)
もちろん、政治方として、持統以後はバックに藤原不比等はいます。中臣祓創作を契機として、公私とも盤石な体制づくりをして、不比等時代に完成したということか。
 これに伴い、女神アマテラスの着想はいつ誰がということですが、はっきりしません。女神のモデルとしたのは皇極天皇だというのが、本書の結論でしたけど、詳細は省略します。

 以上のような扱いで、瀬織津姫はどうしたか?そりゃあ怒るでしょう。数々の事象が書紀には書かれています。それは祟りです。祟りも庶民には関係なく、支配層特に天皇に対してでした。大地震に始まり、雷、豪雨、洪水などなど。まさしく、滝神あるいは竜神たる瀬織津姫らしい祟りです。
 天皇はこれらは自分の不徳が原因と悩むのです。結局、心身とも弱って、686年、天武崩御。后であった鸕野讃良皇女も、大津皇子を即刻粛清してまで、子である草壁皇子に皇位を継承させようとしますが、皇子もまもなく薨去。自分が即位して天武の事業を引き継ぎます。
 鸕野讃良皇女は幼少期には今の四條畷付近の豪族に育てられ(養育費を負担?)ました。さらら川という名前の川がありますので、その川名が爽やかなので、皇女も知ってはいましたが、その時は「さらら」なんていう爽やかで清楚な感じの女性かと思ってました。しかし、本書を読んで、イヤハヤなんともとびきりの「パワーウーマン」でしたね。これにはびっくり!
https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_heroine/01/

4.持統は三河行幸で何をしたか?
 舞台は伊勢から三河へ。持統は三河行幸で何をしたか?というのがテーマになります。
●三河計画map
689年:飛鳥浄御原令の発布 
690年:持統即位、9月第1回遷宮、9月紀伊巡行 
691年:大嘗祭 
692年:伊勢行幸 
694年:藤原京遷都 
697年:持統譲位、文武天皇即位 
698年:皇大神宮設立 
701年:大宝律令 
702年:三河行幸、12月崩御
  うへっ!とびきりの「パワーウーマン」でしかこなせないようなスケジュールです。これを側近もつけないでこなしたとか。そのせいか?1ヶ月半にも及んだ三河行幸をすませて、これが最後の仕事でした。大和に帰ってすぐに崩御。
  ここでは最後の仕事であった三河行幸について書いてみます。
  なぜ三河なのか?三河と言っても昔で言う穂国、今の東三河、東海道でいえば御油、赤坂から東側になるでしょう。しかし、書紀には三河で約1月何をしたか詳しいことは何も書かれていないのです。 実際に行ったのは、三河、尾張、美濃、伊勢、伊賀(これは帰途の順らしい)。遠江にも行ってるらしい。
 https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr1-8.pdf

■本宮山と石巻山
 三河のその先は諏訪、そのまた先はもう蝦夷の国。三河は朝廷にとってはまさに鬼門でした。その鬼門の三河では何の神を祀っているか?それはアラハバキ神でした。これにはびっくり!三河はアラハバキを祀る列島最南端の国。その場所は本宮山。エッ!本宮山ってヤマッパーさんの日記によく出てくる山やないの?麓に砥鹿神社があって、山上に奥宮があり、磐座もあります。祭神はオオナムチとアラハバキを祀る。アラハバキはここではオオナムチの荒魂となっているようです。里宮は大宝年間701-703年に創建したというので、まさに持統の三河行幸とほぼ重なります。もしかしたら創建祭にでて地主神の鎮撫でもしたか?
●砥鹿神社奥宮:https://www.togajinja.or.jp/about/images/okumiya-pc.jpg
okumiya-pc
 荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)について、しょっちゅう出てきますが、さっぱり分からん。大神神社公式の祭神の説明では、「和魂は穏和で調和的な神様のお力、荒魂は活発で能動的な神様のお力とされ、三輪山に鎮まる大物主大神は和魂とされ、狭井神社は大神の荒魂をお祀りしています。『日本書記』では出雲の大己貴命が自らの和魂(幸魂奇魂)を三輪山に鎮めたと記され、『出雲国造神寿詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)』という祝詞には大己貴命の和魂を大物主神の名前で三輪山に鎮めたと記されおり・・・」これでも分かりません。分からせないための表現なのか?
http://mobile.oomiwa.or.jp/korede.html
 本書では、「和魂はヤマトに帰順した神の様子(大物主)。ならば、帰順していないのが本来のオオナムチの荒魂。瀬織津姫に関して言えば、天照大神の荒御魂と書かれた場合、それは瀬織津姫が隠されている。」とされます。本宮山では「オオナムチの荒魂」という表現は、裏にあるアラハバキの名は隠すけど、ヤマトには帰順していないよ、と宣言しているようなもの。どうだ文句あるかといっているようなもの。これなら解ります。本書では、これは三河の気概と書かれていました。
 本宮山対面にある石巻山。オオナムチを祀る。ここは「美和郷」というので調べると、大和の三輪山そっくりで、なんとこの付近の住民は大和から逃げてきた物部氏の末裔が主力だとか、なるほど、そうかんたんには帰順しないわけだ。
https://miwagolabo.com/
 豊川流域には、本宮山の近くに石座神社あり。主祭神は天御中主命ですが、摂社に伊雑神、アラハバキ、タケミナカタを祀っています。実はここ、2001年9月にニアミスでした、長篠の戦い設楽原古戦場馬防柵の裏手壇正山を越して少し歩いたところにあうのでした。もういっぺん行ってみるかな?
https://zanzara-walkin.blogspot.com/search/label/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 先程の石巻山にも伊雑神が祀られています。伊勢では天照大神(あまてらす)創出のため、太陽神大歳神アマテルー瀬織津姫のペアを壊された神社。そういう神社が普通にお祀りされてるのが三河穂国でした。
●豊橋から石巻山(多分)
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■御津神社
 豊川を降って御津に来ました。御津は持統が三河に上陸した港とされています(伊勢から船で来た)。御津は穂の国の外港です。ここにある神社は御津神社。大国主命をお祀りし、また船舶の守護神伴っています。社伝によると、御祭神は伊勢より船にて渡来せられたと。この謂れから想定できる可能性は、伊勢からきた神は、海を照らして寄り来た神、日神で、それが国譲りした代表の大国主(ヤマト王権公認)に変更されたということです。

■持統の三河行幸の目的は何だったのか?
 それは、三河在地の国津神に「天照大神は、皇室でアマテラスとして祀ることになった、その旨よろしく、で、アマテルとセットになっていた神もこちらでお祭りすので名前を変更してね」と説き歩いていたのではないですか?それも騎兵を伴っていったので、圧力をちらつかせて。その相手は独立心旺盛な多数の国津神だったので、一筋縄では行かず、1ヶ月もかかった。しかし、その実態は、国津神に圧倒されて、本宮山麓に砥鹿神社を建てて鎮撫するしか手がなかったのではないかと。
 三河の圧力に対抗する行脚で、心身ともに疲労困憊だったのでしょう。三河行幸が終わって翌月に崩御。さしものスーパーウーマンも力尽きました。しかし、それは織り込み済だったかも。文武天皇には不比等がついてくれたし、100点とは言えないえれど、まあまあよくやった、と幾分かは安らかな気持ちにはなったのではないですか?
 こちらも結構疲れたので終わりにしたいけれど、あと少しだけ。

5.瀬織津姫は晴れて早池峰へ
 このあと三河で隠れながらも生き残った瀬織津姫は、なんと、天白神(養蚕の神)に変身、さらに養蚕が媒介になってオシラサマとなって早池峰に到達します。オシラサマは座敷わらしなど小さな神々に分化していきます。
 養蚕が媒介になっていた!養蚕といえば、桓武天皇の御世、延暦15年(796年)、その時、養蚕の先端を行っていた、伊勢、相模、近江、丹波、但馬、三河から技術者を陸奥に派遣、三河からは2名の婦女が派遣されます。お!丹波からも来ている。当家も昔養蚕農家でした。懐かしい。
 お蚕さんの教室:https://yamap.com/activities/20336477
 グンゼ:http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2015/01/post-dff6.html
 それはともかく、三河からの2名の婦女が、遠野・伊豆神社の伝承、拓殖婦人の「おないさん」にリンクするのです。もちろん国策で、さんざん手を焼いた蝦夷征討のため、坂上田村麻呂を派遣するときでしょう。これから先は、北の耀星アテルイ~火怨(上・下)~の世界です。
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/makinoateri.html

 持統の三河行幸から1世紀、瀬織津姫は早池峰に到達しました。そこは瀬織津姫にとって安住の地でもなかったけれど、地元の民にはすこぶる信頼され愛されもした。安住の地でないというのは、「天照大神荒魂」と書かれたり、早池峰大神だったり、県社への昇格書類を(わざと)紛失されたり、「祭神瀬織津姫」と書いた県社へ昇格書類では不許可になって「姫大臣」としたら許可されたり、明治、昭和になっても「そんなアホな」という扱いも多かった。しかし土地の民には愛されているのが実感できる。
 さらにいえば、早池峰山は本州では一番東に位置する高山で、朝、真っ先に日が昇る、日に照らされる山です。海人族が海を照らして寄り来た神、日神を携えてこの地に来たならば、真っ先に早池峰山を目当てにしたでしょう。そこで、早池峰には太陽神(男神)を祀る、そこに瀬織津姫も祀られる。早池峰山頂は「瀬織津姫碑」2基(これは遠野側と西の大迫の早池峰神社奥宮)と「早池峰神・天照比売大神」の石碑があります。「天照比売大神」いったい何でしょう?これは、すでに瀬織津姫碑とおおらかに表現した石碑があるので、ヤマト的な表現「天照大神荒魂」とは思えないし・・・そこで、天照+比売と考えたらどうかというのが本書の考えです。男神たる天照大神(あまてる)+瀬織津姫。そもそも早池峰山は海からこの地にやってきた海人から見れば太陽神(男神)が静まる山で、そこに新たに瀬織津姫が祀られた。両神一体とはいいませんが、本書では里からみたら瀬織津姫(女神)、海から見たら、あるいは山上では天照(あまてる)太陽神(男神)と見える両義性とされていました。少なくも瀬織津姫の傍には天照(あまてる)神がいる。これはオリジナルの姿ではないですか。天照(あまてる)神はまさに「光る君」!太陽神だけに。これでどうですかね?
 でも、もうちょっとだけ、こんな話があります。
 遠野の附馬牛に早池峰神社を遥拝する新山神社があります。もちろ祭神は瀬織津姫。ある時近くにある御祖神社(これは新しい天照大神【アマテラス】を祀る)を合祀することになり、神輿を新山神社に遷したのです。ところがその日から大嵐!農産物の被害が大きくなったので神輿を戻しました。そうするといっぺんに天気がよくなって、豊作になったとさ(附馬牛村誌)
 瀬織津姫はアマテラスとは合わないのです。合わない神と合祀するのはダメ。ダメなものはダメなんです。ここに瀬織津姫の気合をみました。持統はスーパーウーマンだったと思いましたが、瀬織津姫も負けず劣らずスジを通すスーパー女神でしたね。早池峰に敬意を表して写真を。
●早池峰山  yamap公式サイトより。https://yamap.com/mountains/39
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