淀川渡し(3) 柱本から海を見にゆく / walkinさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
カテゴリ: 淀川渡し
三島鴨
三島鴨神社と赤大路鴨神社の変遷
年代 | 三島鴨神社の変遷 | 赤大路鴨神社の変遷 | 三島鴨関連事項 |
http://www.eonet.ne.jp/~mishimakamo/rekishi/rekishi.html | https://kamojinja.amebaownd.com/ | http://www.eonet.ne.jp/~mishimakamo/rekishi/rekishi.html | |
創始氏族 | 大山積 | 鴨氏創始に三嶋氏(御島氏)が加担 | |
3世紀 | 【由緒】第九代開化天皇(四世紀初め)までの奈良葛城王朝を支えた「鴨氏」により三世紀頃に創建された伝承がある。 【鴨族創建の鴨神社】 葛城の高鴨神社を祀った鴨族一族が摂津国嶋下郡方面へ勢力を伸ばしてきた。 大和川ー淀川の流れに沿って葛城の鴨族が、あるいは朝鮮半島から渡来した鴨族が直接、赤大路へ勢力を伸ばし、鴨林を拠点に拡大し始めた |
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4世紀 300年代中葉(古墳時代初期) |
創建は第16代仁徳天皇(313~399)が大山祇神を迎えて、摂津御島に淀川鎮守のやしろをつくる(唐崎のあたりにいた物部の韓国連が協力する) | このころ三島の王族が高槻の弁天山に三代にわたり古墳をつくる | |
4世紀後半〜5世紀 | 【由緒】大山積命は「伊予風土記」では仁徳天皇のころ、最初攝津の国、御嶋の地に座した」とあり、そこは「続日本記」の「別記」によれば「摂津の国嶋下郡三嶋鴨社なり。 即ち、往古の鴨氏始建に加担するかたちで百済系の渡来人がその頃創建した 【摂津・三島の元氏神】4世紀末の仁徳天皇の時代に百済から武寧王の斯麻王、つまり御嶋(三島)の神が渡来し、現在の津之江や三島江の方から北へと勢力を伸ばしてきた。 その間、三嶋族は先住の鴨族と共生する時代があったと思われる。 その後三嶋氏は勢力拡大、摂津の国の県主となり「鴨神社」と合祀して「三島鴨神社」とし、摂津国の氏神として強大な支配力をつけていった |
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6世紀 507~531(古墳時代 後期) |
第26代継体天皇(507~531)即位して活躍、 晩年に寿塚(今城塚)をつくり、死後そこに葬られる(三島縣主 三島神社の維持につとめる) | 【由緒】大山積命は百済の第二五代武寧王(斯麻王)の没(523年)により、これを「斯麻の神」「嶋の神」さらに「御嶋の神」としても祭られ、別名「和多志の大神」(海の神)とも記されている。 【摂津・三島の元氏神】その力に押されるようにして、鴨一族は継体天皇(507即位−531没)以後、滋賀や福井などへ勢力を広げる布石を打つ。 |
三島の王族 縣主となり赤大路に三島鴨神社 馬場に溝咋神社 その対岸上流に上宮をつくる |
6世紀後半 | 百済から538年に仏教が伝わり、554年に医学、暦、易の博士が渡来する。574年には聖徳太子が生れる | ||
600年代中葉 | 柿本人麿(660~720) 三島江を歌う (万葉集)。以来、歌枕の里となる | ||
時期不明 諸説あり、8世紀中葉に集中か? |
摂津御島の三島社を分社して、伊豫越知郡に「大山祇社」(神亀元年(724年))、伊豆賀茂郡に「三島神社」ができ、日本三三島として崇敬されはじめる | 【由緒】当社「大山積命」を守護神とする百済系の「三島氏」が百済との海上交易を深める為、当社から伊予大三島に「三島大社」を勧請し、伊豆にも「三島大社」をも起す。 |
(699 文武天皇3年)役行者 三島江にきて伊豫と同じ神だと知り 唐崎に韓からの船が着いているのを見る |
【由緒】少なくとも奈良時代・720年以前の神社という事が証明された。 (発掘調査) |
大仏建立で神仏混合がはじまり 宇佐八幡が淀川上流に勧召されて石清水八幡ができる | ||
900年頃 | 淀川船運の安全祈願をかねて、柱本に三島神社の旅所がつくられ 、そこまでの船渡御がはじまる | ||
1000年頃 | 天皇や藤原一門 さかんに淀川を船で往来する | ||
1160 (永暦元) |
建春門院が、三島神社に祈願して、皇子(第80代高倉天皇(1161~1181))を懐妊して安産 | 【由緒】平清盛の妹で後白河天皇の中宮、建春門院が皇子誕生を当社に祈願したところ、高倉天皇が生誕(1161年)され、これを祝し京都に「三島神社」(五條坂)を造営された。高倉天皇の中宮は平清盛の次女で後の建礼門院で、その子が安徳天皇である。 (高倉天皇(即位1168年)由緒) |
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第77代後白河天皇(1127~1192)の命により、平重盛が三島神社から大山祇神をむかえて京都上馬町に三島神社を祀る | 高倉天皇(即位1168年)由緒 平清盛の妹で、後白河天皇の中宮、建春門院が皇子誕生を当社に祈願したところ、高倉天皇が生誕され、これを祝し京都に「三島神社」(五條坂)を造営された。尚、高倉天皇の中宮は、平清盛の次女で後の建礼門院で、その子が安徳天皇。 |
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1205(元久2) | 第82代後鳥羽上皇(1180~1239)、水無瀬にて藤原定家らに命じて「新古今和歌集」を撰じさせ、この時期に玉江と玉川の歌が多くの歌人によってつくられる | ||
1400年代 (室町時代) |
唐崎に三島神社の若宮できる | ||
1598(慶長3) | 豊臣秀吉の命により淀川右岸の堤防がつくられ、三島神社は川中島から三島江村内に遷される | ||
1615~1624 (元和年中) |
高槻藩主に幾島大明神ととどける | ||
1697(元禄10) | 高槻藩主の尽力で延喜式内社三島鴨神社と改称、川中島から遷されてから船渡御が中止されていたが、藩主の支援で溝咋神社までの神輿渡御がはじまる | ||
1725(寛保15) | 「淀川両岸一覧」に三島鴨神社掲載される | 三島江浜から妙見への参詣の道があった | |
1871(明治4) | 新政府によって「郷社」と格づけられる | ||
1890 (明治23) |
町村制が実施され 三島郡三箇牧村の「村社」となる | ||
1908 (明治41) |
政令により大字唐崎の「唐崎神社」、大字柱本の「天神社」「稲荷神社」、大字西面の「八幡神社」を境内に合祀、西面の大西注蓮縄講ひきつづいて注蓮縄奉納を約束 | ||
1916(大正5) | 大正天皇即位大典を記念して、拝殿新築、社務所炊事場を増築 | ||
1917(大正6) | 淀川堤防大塚切れで境内の絵馬殿つぶれる | ||
1919(大正8) | 境内に「表忠碑」(忠魂碑)できる | 軍国主義の流れ強くなる | |
1928(昭和3) | 昭和天皇即位大典を記念して昇格運動を展開する | ||
絵馬殿再建ならず | |||
1937~1945(戦争中) | 応召軍人の武運長久祈願、戦勝祈願などで国家神道一色となる | ||
1945 (昭和20年7月9日) |
空襲により拝殿炎上 | 8月15日敗戦 以後民主化はじまる | |
1948 (昭和23年3月) |
宗教法人登記 | ||
1963(昭和38) | 拝殿再建 | ||
1995(平成7) | 阪神淡路大震災により大鳥居倒壊、各社殿いたむ | ||
1996(平成8) | 氏子が総力をあげて大鳥居再建、各社殿修理はじまる |
淀川渡し(2) 大塚から三島鴨神社経由で柱本
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